五味康祐氏のこと /Jan 20, 2001
この年末、世紀末の数日に五味康祐氏の著書『人間の死にざま』を読んだ。五味さんについては若いメンバーの中には知らない人もいるかもしれないが、70年代以前からオーディオが趣味だった人ならば「偉大な先達」として忘れることのできない人物だろう。
そのオーディオにおける代表的著作『西方の音』は今でも時々ハードカバーのままで再販される(新潮社刊)し、『ベートーベンと蓄音機』(角川春樹事務所刊ランティエ叢書)という文庫本サイズのものはまだ大きな本屋にならあると思うので、未読の人はぜひ読んでほしい。
今回読んだ『人間の死にざま』は五味さんの新潮社での遺稿集にあたる書物だ。私は五味さんのオーディオ関係の著作を集めていて、『西方の音』とその続編『天の声−西方の音−』(「声」は正確には旧字だが、呼び出せなかったので新字を使用)はすでに持っていたが、この『人間の死にざま』はなかなか入手できないでいた。というのも、古本の値段が異様に高く、神保町で3500円とか3800円という値がついているからだ。たまに神保町でみつけることはあっても、値段にため息ついて本棚に戻すということを繰り返していたのだが、今回、インターネット検索という新兵器のおかげで、地方の古本屋のリストの中に1500円という値段で発見でき大喜びで取り寄せたのである。(ちなみに以前、古本屋めぐりで『西方の音』は700円、『天の声』は500円という安値で入手。この2冊は発行部数が多いためか、そんなに高くない値段でみつかる時もある)
入手して初めて解ったが、この本は前半の1/3が「人間の死にざま」、残りが「愛の音楽−西方の音−」と二部構成になっていて、音楽とオーディオのことはおもに後半に書いてある。その割合からして当然『愛の音楽−西方の音−』となるべき本だが、五味さんの遺稿集として出たので、インパクトの強い『人間の死にざま』の方を書名としたのだろう。(では前半がつまらないかというとそんなことは全くない。オーディオとは直接関係は無いものの、「人生」を深く考える人ならば極めて興味深いことがらが書かれている。ここでは詳細はふれないが、五味さんの文章に共感をおぼえる者ならば必読だろう。)
五味さんのオーディオや音楽に関する文章を読んだことのある人ならお分かりかと思うが、五味さんは自分の人生そのものに音楽とオーディオを重ね合わせて文章を書いておられた。オーディオ紹介の定型である「新製品を聞いて、もう最高とやたらにほめそやすこと」とか「いささか怪しげな対策を、無責任に効果抜群とレポートすること」等をただ書き流すんではなしに、自分のそれまでの人生と、聴こえてくる音や音楽のそれぞれの業の重さを真剣で対決させ、そのギリギリのせめぎ合いを必死の思いで書き留めておられたのではないかと思う。
あの詩情あふれるオーディオ評論を書いていた瀬川冬樹氏が執筆の際つねに、「五味先生ならこれをどう書かれるだろう」と考えながら呻吟していたことはご自身が書き残されているが、それもうなづける話。オーディオに関する文章をこのお二人ほどギリギリのところまでつきつめて書かれていた人は他にはほとんどいないのではなかろうか?
五味さんが亡くなった時、お嬢さんが書かれた追悼文の中に「父は音楽の中に神を見ていた」という意味のことを書いておられたが、単なる趣味や単なるショーバイでオーディオに取り組んでいることが多い我々には、何とも耳が痛い言葉だ。
「重苦しいのはキライだ」「趣味だから自分の好きなようにやればいい」 おそらく、かなりのオーディオマニアがそんな風におっしゃることだろう。私を含めたオーディオマニアがよくやる、「あれこれと情報収集に勉めやたらと新製品を買い漁ること」や「細かい部品の一つ一つを交換して悦にいること」等はオーディオ趣味の喜びには違いないが、どれも迷いの森をさまよっていることに変わりはないだろう。「迷いの課程を趣味と呼ぶのだ」というもっともな主張もあるだろうが、無責任な情報に振り回され、何の精神的道しるべもないままに進む無軌道の果てには、いったい何があるのだろう。おそらくそこには荒涼の砂漠が広がっているだけではないのだろうか?
ではどれが目指すべき道なのか? それを人が納得する姿で指し示す器量は、残念ながら今の私には無い。だからこそ、偉大なる先達、五味康祐先生の文章にふれてほしいのだ。
「お金が無くて思うようなシステムが組めない悲しみ」や、「想い焦がれた機械をようやく手に入れた時の喜び」。「それが思うような音で鳴ってくれなかった時の絶望感」に「それを使いこなそうとする悪あがき」。さらには「無責任な権威者に従ってしまいドロ沼に陥ってしまう絶望感と憤怒」等々。ここにはオーディオマニアなら誰でも経験あることが綴られている。そんな極めて個人的な事どもを書きつらねながらも、そこに説得力と普遍性を持たせる筆力は余人のおよぶところではない。この境地に達するにはやはり、「それだけ重みのある人生を歯を食いしばりながら生き続けていくこと」、と言うよりむしろ「人生を歯を食いしばりながら生き続け、それだけの重みを持たせていくこと」が必要なのだろう。
五味先生の言葉と生きざまには、我々の目指すべき道の一つが確かに示されている。決してお気楽に読めるものではないが、無軌道なエセ極楽に迷った時の何よりの指針となることは間違いない。私も物書きの端くれとして、五味先生の言葉と生きざまを肝に銘じて生きていきたいと思う。これは、事実や感想文の羅列で依頼原稿を書いてしまうことがないとは言えぬ、三文文士の懺悔でもある。
(藤川)
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