もう一つのプライバシーの話
もう一つのプライバシーの話 / 白田 秀彰 著

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1 はじめに

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私は、 中学生または高校生である皆さんのためにプライバシー問題について解説して、 皆さんの自主的な判断と責任のもとにプライバシー問題に対処していけるように、 と考えてこの文章を書くことにしました。

もともと「プライバシーの権利」という考え方は、 イギリスやアメリカで発展してきた考え方で、 日本には近年までそうした考え方は無かった、というのが実状です。 後で詳しく説明しますように、プライバシー問題それ自体は古くからあります。 しかし、現代の私たちが直面しているプライバシー問題は、 以前のものと異なる要素を多く含んでいるため、 改めてプライバシーについて考えてみる必要が生じているわけです。 こうした理由から、 皆さんに向けて書かれた新しいプライバシー問題に関する解説はあまり無いようです。

仮にそうした解説があったとしても「プライバシーは大切ですから、尊重しましょう」 「他人のプライバシーを侵害すると、法律で罰せられます」 「自分のプライバシーを守るためには、個人情報を秘密にしましょう」 というようなことが書かれているのだと思います。 そうした解説をちょっと読んでみると、当たり前のことのように思えるでしょう。 当たり前すぎて、具体的にどうすればよいのか分からないのではないかと思います。

そこで、この『もう一つのプライバシーの話』では、 「プライバシー問題の原因は何なのか、 私たちはこの問題にどのように対処すればよいのか」 という問いに対していっさい手を抜かずに、 でも難しい用語や概念を使わずに説明することを目標としています。もし、 この文章を読むことで皆さんにプライバシー問題の本質が理解されるならば、 自分がすべき選択とその結果についての覚悟をすることができるでしょう。

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2 プライバシーが大変だぁ!

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さて、皆さんはこれまで一度くらいは「プライバシー」 という言葉を聞いたことがあると思います。 テレビをつけると最近ちょっと見なくなった芸能人が「プライバシーの侵害だぁ」 とか騒いでいるのを見たことがありませんか?もし、 その芸能人がとくに好きでもなければ、「ふーん」と聞き流したり、 もっと面白い番組を探してチャンネルを替えてしまったりするでしょう。でも、 もし皆さんの好きなアイドルだったら、みなさんは「なになに」 と画面に顔を近づけて詳しく放送の内容を見ようとするでしょう。

別のチャンネルを見ていたら、 あるミュージシャンのコンサートの様子が放送されていました。 カッコいいスターの周りにはたくさんの「おっかけ」と呼ばれる女の子たちがキャー、 キャーと騒いでいます。あなたは「うらやましいなぁ」と思ったかもしれません。 一度くらい、かわいい女の子に追い掛け回されてみたいな、 と思ったかもしれませんね。

次のチャンネルに替えると「ストーカー」といわれる人たちの特集をしていました。 特定の個人を執念深く付け回す人たちのことで、 他人のプライバシーを侵害する犯罪だと説明されていました。 「こんなのに狙われたら、たまらないよなぁ」と思ったでしょう。同時にあなたは 「あれ?じゃ、おっかけはストーカーとどう違うの?」と気がつくでしょう。

次のチャンネルでは、ドキュメンタリー番組で、個人情報売買の特集をしていました。 私たちの名前、住所、電話番号、生年月日などの個人情報が、 懸賞はがきやアンケートや卒業名簿などから集められ、 ダイレクトメールを送る時の情報として広く売られているというのです。 皆さんのなかには、「ええっ、気持ち悪いなぁ」と思った人がいるかも知れません。 でも、「別にいいんじゃん、名簿なんて誰だってその気になれば見ることできるし」 と思った人もいるでしょう。

また別のチャンネルに切り替えたら、 大学の先生が出てきて (どこのチャンネルかだいたい分かりますね)、 「プライバシーは大事です。これを守るためには法律が必要です。加えて、 私たち一人一人の自覚と注意深い行動が求められるのです」といっていました。 「ふーんそうなのか、プライバシーは大事なんだな」 と皆さんはなんとなく思うことでしょう。

でも「名前、住所、電話番号を他人に知らせてはいけません」といわれると、「うーん、 さすがにそれは無理なんじゃないかな。 クラス名簿でクラスの人たちの住所や電話番号ならみんな知ってるよ」 と考えるでしょう。また、法律があればプライバシーは守られるのでしょうか? いったんみんなに知られてしまった「秘密」 を法律は取り戻してくれるのでしょうか?どうやら、 プライバシーを完全に守るためには、雨戸を閉めて家に閉じこもるしかなさそうです。

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3 噂好きな私たち

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人間は社会的動物ともいわれます。他人に関心をもち、 他人と関わりをもつことで社会は成り立っているのですから、 私たちが他人の生活や行動について関心をもつことは私たち人間にとって当たり前だ といえるでしょう。でも、ある特定の人にどれほどの関心をもつかということは、 人それぞれに違っています。皆さんにも、気になって仕方がない人がいるでしょう? でも、クラスの中にはどこに住んでいるかさえ知らない人がたくさんいるでしょう。

逆の立場で考えてみましょう。「私はクラスでも人気が無いんだ」 という人がいるかもしれません。誰もあなたに関心を持ってくれないのは、 寂しいことですね。でも、関心を持たれることも大変です。 他人から良い評価で関心をもたれることは、すなわち「モテモテ」ということですし、 他人から悪い評価で関心をもたれることは、すなわち「いじめられる」 ということになるでしょう。

当然あなたは、他人から良い評価で関心をもたれたいと思うでしょう。でも、 他人があなたをどのように評価するかを、 あなたが思うままに決めることはできません。だから、 あなたが他人の関心の対象になるということは、「いじめられる」 危険を引き受けつつ、できる限り良い評価を獲得して「モテモテ」 になる努力をすることといえます。けっこう疲れる作業です。みなさんのなかには 「そうした危険を引き受けるくらいなら、 誰からも関心を持たれないようにしながら生きていきたい」 と考えている人もいるでしょう。

そう、他人と付き合うということ、すなわち社交は疲れる作業であり、それでいて、 世の中をわたっていく大事な作業なのです。 こうした社交がちっとも苦にならない人もいますが、大抵の人にとっては、 それなりに大変な作業です。だから、 せめて自宅くらい 自分の部屋くらい誰の目も気にせずに「ありのままの自分」 を解放したいと思うでしょう。 こうした他人の視線から逃れたいと思う気持ちもまた社会的動物としての人間のあた りまえの欲求なのです。

このように他人の視線から逃れられる領域を私的領域と呼びます。 この私的領域を古い英語で privacy と呼んでいました。 これがプライバシーという言葉のもともとの意味です [1]。この私的領域は、 部屋や自宅に限りません。あなた自身の心があなただけのものであるように、 あなたが他人に見せるつもりがない、 あなたの内心やこれを記した日記や手帳やバッグの中身もまたプライバシーに当たる わけです。

また最近の家庭ではなかなか「ありのままの自分」 を解放することはできないかもしれませんが、家庭は 社交とは違った緊密な人間関係を形成しています。それゆえ、 家庭内もまたプライバシーと伝統的に考えられてきました。また、同様に、 友人間においても家族に準ずる親しい関係については、 プライバシーであると考えられます。それゆえ、 自分の部屋や家庭の外に出てしまったとしても、 親しい人に宛てられた手紙の内容や電話での会話もまたプライバシーを形成している と考えられています。

ところで「私的領域」がどの範囲にあるのかが、 あなたの主観やあなたのそれぞれの友人達との親密さの度合いにかかっているとする と、実際には、プライバシーが成立する場面は、人それぞれ、 また時と場合に応じてそれぞれ異なってしまうことになります。皆さんのなかには、 友人にかばんの中を覗かれても平気な人がいるでしょうし、 また逆に自分の部屋に母親が入ってくることでさえ嫌がる人がいるかもしれません。

また、プライバシーの領域の広さは、社会のありかたにも大きく左右されます。 たとえば、江戸時代の日本には、村社会があり、 江戸などの大都市では長屋での共同生活がありました。村の中では、 どこの夕食の献立がなんであるのか、村の大抵の人が知っていたり、 どこの娘が今年 16歳になるのか大抵の人が知っているような社会でした。 江戸の長屋では、壁一枚を隔ててたくさんの世帯が暮らしていました。 すこし注意して耳を澄ませば、隣の家の会話を聞くことも簡単でした。 もっといってしまえば、夏などには、どこの家でも戸を開け放していましたから、 覗こうと思えばいくらでも覗けたのです。それでも、 他人の目について社会問題になることはありませんでした。

一方、最近の私たちは、家族相互の間でも秘密をもち、 自分ひとりの私的領域をもつようになりました。自分の部屋をもち、 親さえもその部屋に入れさせないという人もたくさんいるのだろうと思います。 親が自分の日記をこっそり読んでいたりするということを知って、 ゾッとした経験がある人がいるかもしれません。皆さんのプライバシーは、 以前に比べますと格段にはっきりし、広がっているのです。

こうして考えますと、ただ「プライバシー、プライバシー」と叫んでいるだけでは、 なんでもプライバシーということになり、 私たちは他者と交流することができなくなってしまうわけです。ですから、 社会生活をすることは、 いくらかの程度でプライバシーを放棄することを意味しているわけです。

また、事実というものは、 いくら隠そうとしても世の中に這い出していってしまうものです。 あなたが誰かとデートしたことが噂になったとき「プライバシーの侵害だぁ!」 といってみんなの口を塞ぐことができるでしょうか?とはいえ、 あなたが今日どんな朝食を食べたのか、お財布の中身はいくらくらいなのか、 どこでオナラをしたのか、という細かいことまで知っている他人がいるような状況に、 ガマンできるでしょうか?おそらくできないでしょう。

このように、「プライバシー」とは何なのかを考えていきますと、 よくよく考えるほどにその内容や範囲がはっきりしなくなっていきます。 このようにはっきりしない対象を相手にするということを、 法律や制度はたいへん苦手にしています。だから、 プライバシーに関する法律や制度は大変にわかりにくく、また、 つかみ所がないわけです。そうしていて、 私たちは法律をまもらなければならないわけですから、困ってしまいます。

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4 メディアとプライバシー

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ここでプライバシーの権利に関する詳しい歴史を説明する余裕はありませんが、 簡単にこのプライバシーの考え方がどのような背景で現れてきたのかを説明しておき ましょう。

社会に対する個人の私的領域がプライバシーであるとすれば、 人間と社会が存在するところにはすべてプライバシーがあるとも言えるでしょう。 ところが、19世紀の末まで、プライバシーという考え方はありませんでした。 それまでは、(1) 自分の住居への理由のない侵入や捜査を排除する権利すなわち 「住居の不可侵」、(2) 理由もなく逮捕されない権利すなわち「身体の自由」、 (3) 自らの意思に反して発言を強制されない権利すなわち「内心の自由」、そして、 (4) 自分の手紙や日記などを勝手に公表されない権利や、 他人の作品に勝手に自分の名前を使われない権利としての「著作権」 などのそれぞれの権利にもとづいて、いま「プライバシー」 と呼ばれている諸利益が保護されてきました。また、(5) 私的な事柄を公表されたことで社会的な評判が低下した場合は、 そうした事柄を公表した人を「名誉毀損」で訴えることもできました。

では、なぜ19世紀の末にプライバシーという考え方が現れてきたのでしょうか? 「プライバシーの権利」という考え方の始まりは非常にはっきりしていまして、 1890年にアメリカのハーバード大学の法律論文によって生まれたのです。 この時代には現代とよく似た状況が存在していました。 印刷術がこの世に現れたのはずいぶん昔の話ですが、 大衆レベルにまでその恩恵が届くのには時間がかかりました。 そうして19世紀の半ば以降、 印刷機から産み出される印刷物が社会の一番貧しい人達のところにまで届くようにな ってきたのです。 そうしてそうした恩恵が社会に行き渡ると同時に弊害も現れてきたのです。

このころ、 生産能力を大幅に増した印刷機から吐き出される大量の印刷物の売り込み先として大 衆が狙われました。なんといっても数が多いですからね。そして悲しいことですが、 私たち大衆というものは、いつでも他人の噂話が好きなのです。しかも、 良いことではなく悪いことが大好きなのです。有名人の不倫、 恋愛沙汰などの私生活に関するゴシップ記事が大衆向け新聞紙を飾りました。 新聞各紙は、発行部数を競うために、 大衆の関心をひきそうなことならなんでも記事にしました。 たとえそれが嘘であってもです。 こうした堕落したジャーナリズムがはびこっていたのが、 1890年代のアメリカなのです。

こうした事態に対してウォーレンとブランダイスという法学者がこれまで伝統的に認 められてきた諸権利を新しい視点で整理して、これを「プライバシーの権利」 と名づけたのです。それは、 堕落したジャーナリズムから私生活を守ることを目的にしており、その内容は 「一人にしておいてもらう権利」とまとめられました [2]

ここで皆さんに注意しておいてもらいたいことは、 プライバシーと考えられる領域は昔から存在していたにもかかわらず、 19世紀末に個人とメディアとの関係が変容したことをきっかけに、 このメディアと個人との関係のバランスを取ろうとして「プライバシーの権利」 が現れてきたことです。すなわち、メディアが力を備えたことに対して、 メディアによる侵入を個人が排除する力として権利が必要とされたわけです。 先に述べたように、プライバシーについて考えるとき、 あまりその領域を一般的に考えてしまいますと「なんでもプライバシー」 に陥ってしまうわけで、本質的な問題点を見失ってしまいます。そこで私たちは、 「プライバシーの権利」について考える時、社会、メディア、 個人の三つの情報力の関係について検討していく必要があるわけです。

さて、プライバシー問題が身近な問題としてみなさんにも関わってきた背景には、 やはり、社会、メディア、個人の三つの関係が変わってきたことがあります。

日本でプライバシーの権利が初めて裁判で認められたのは、1964年のことです。 これは、小説の出版とその小説の主人公のモデルとされた人との間の事件です。 その後の大きな事件も、 いずれも出版とその出版の内容に登場する人との間の事件でした [3]。すなわち、 プライバシー侵害の問題は、 出版や放送などのメディアとそのメディアの関心の対象となる人達との間の問題であ り、単なる一市民として普通に生活する人には、 ほとんど無関係な問題だったわけです [4]。もちろん、 そのメディアの関心というものは、 私たち大衆のゴシップ好きを背景にしているわけですから、私たち大衆は、 あえて言えばメディア側の立場にいたわけです。

この時期にも、特定の個人に強い興味を抱いて、覗いたり、盗聴したり、 付け回したりといったことをしていた人がいて、 そのうちいくつかは事件になったかも知れません [5]。しかし、 それはプライバシーの問題というよりは、 むしろ異常な性癖をもった人が引き起こす犯罪の問題として取り扱われてきました。 また、私たちの名前や住所や電話番号が、 どこかのお店のお得意様名簿などに記録されても、 そのことが私たちの私的生活を脅かすようなことはまずありませんでした。

では、 なぜ最近私たちの身近なところでプライバシーが問題となってきているのでしょうか。 それは、情報化社会と呼ばれる現代において、 私たち個人がプライバシーという視点から見て、とんでもない脅威に曝される一方で、 驚異的な情報力を手に入れてしまったからなのです。たとえて言うなら、 それまで国家やある程度の力を備えたメディア企業だけがもっていた武器が、 みんなに広まってしまったような状況です。これまでの情報環境、 メディア環境は一変してしまいました。 新しいバランスとルールが必要とされているのです。

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5 情報化社会とプライバシー

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情報化社会がどういった時代なのか、という点については、 いろいろな考え方がありますが、ここでは、 おおよそ次のように整理しておきましょう。

情報というのはタダで手に入る物ではありません。 仮にお金を払わなくても良いとしても、ある情報を手に入れるためには、 知っている人を探して尋ねたり、図書館で本を探して読んだりなど、 時間と手間がかかるわけです。この時間や手間も費用だと考えますと、 情報を受け取るのにはそれなりの費用がつねにかかっているわけです。 逆に情報を誰かに伝えるのもタダではありません。 自分の考えを誰かに伝えるためには、長い時間をかけて言葉で伝えたり、 文章にまとめたりしなければなりません。 こうした時間と手間という費用を乗り越えて情報を発信することは、 普通の人にはなかなか大変な作業です。

この視点から考えますと、情報化社会とは、 飛躍的に発達した情報機器のおかげで私たちが情報を手に入れたり、 逆に発信したりする費用(以下「情報コスト」と呼びます) が劇的に低下した社会だということができるでしょう。それまで、 ある事柄に関する情報を収集し、 誰にでも良く分かるように整理して発信するような作業にはとても費用がかかってい ましたから、出版社、新聞社、 放送局といったメディア企業程度の資本力や組織力が必要でした。もちろん、 自分一人でそうした作業をする人たちもいましたが、 それには情報コストを乗り越えるだけの「何としても調べたい」 「何としても伝えたい」という情熱が必要だったわけです。

このように情報の収集や発信にたくさんの費用が必要でしたから、 収集される情報や発信される情報は、その費用に見合った内容のものに限られました。 政治家や大きな会社の社長の私生活、みんなの注目を集めている芸能人の私生活は、 費用を掛けて集めたとしてもそれに見合ったなんらかの利益を期待することができま した。逆に、あなたの家の夕ご飯が「さんま」だったか、「ぶり」 だったかを調べたとしても何の利益にもならないでしょう。ですから、 メディアの標的になる人達はごくわずかであり、 メディアから個人生活を防衛するプライバシーの権利もまた、 そうした人達にだけ関係があるものだったのです。

ところが、(1) それまで警察や国防に関係する人たちだけが使っていた盗聴機や隠しカメラのような 道具が雑誌で通信販売され、(2) 個人でコントロールできる情報探索・ 発信のメディアとしてインターネットが現れ、(3) 発達したデータベースにより個人的なささいな事柄でも、そう、 たとえばあなたの家の夕ご飯が「さんま」か「ぶり」 かといったような事柄でもマーケティングのための重要情報とされるようになります と、 普通の個人に関する事柄でも調査して利用することが経済的に引き合うようになって きてしまったわけです。

さらに悪いことに、 冒頭で述べましたように人間には他人の行動や生活が気になって仕方がないという本 性があります。これは社会的動物として当たり前の本性です。それゆえ、 そうした情報機器をつかって他人の情報を調べて発信するというのは、本質的に 「楽しい」ことらしいのです。情報コストが安くなれば、 それまでよりも興味をひかなかった人や事柄についても調べてみよう、 という気になりますね。

ここまで読んだ皆さんの中には「ああ、情報化社会って恐ろしいなぁ」 「そんな危険な道具は全部禁止してしまえばいいんだ」 「拳銃や刀を禁止するように取り上げてしまえばいい、そうだ『平成の刀狩』だ!」 と考えた人がいるかもしれませんね。 そういう意見がでてくるのも当然だと思います。

でも、情報機器によって情報収集・発信の費用が低下したことは、 悪いことばかりではありません。先ほど述べたように、それまで情報の収集・ 発信にはかなりの費用が必要でしたからある程度の資本力あるいは特別な情熱(利害) をもった人達だけが社会において情報発信の能力を持っていたわけです。 こうした現象は20世紀において顕著であり、マス・メディアは「第四の権力」 とよばれるまでに力をもつようになりました。それらメディアは、 情報をコントロールする力を独占し、 私たちをいつでも情報の力で葬ることができました。たとえば嘘の報道である「虚報」 や誤った報道である「誤報」 によって社会的な生命を絶たれた被害者はたくさんいます。また、メディアは、 自分達に都合の良い報道や宣伝を行うことで私たちを欺くことさえできるのです。

そうした権力をもったマス・メディアの「良心」に期待してばかりもいられません。 インターネットに代表されるような個人がコントロールすることができるメディアは、 私たちを支配する権力そのものや、巨大な権力となったマス・ メディアに抵抗する能力を私たちに与えてくれたのです。情報化社会は、 これまであまりに偏って存在していた「情報をコントロールする力」 を民主化したともいえるわけで、 情報力の均衡という点では望ましい面を持っています。このことはまた、 私たちの生活へのメディアからの侵害に対して、反論・ 抵抗する能力を私たちが獲得したことを意味しているわけです。

さて、もともと「プライバシーの権利」 がメディアの情報力に対抗するための権利として現れてきたと述べました。 また現代の情報化社会が「情報をコントロールする力」 を私たちに与えてくれたことも分かりました。こうしてみますと 「プライバシーの権利」が盾とすれば「情報をコントロールする力」 は矛の関係に立っていることが分かると思います。そして、 現代のプライバシーの権利は、こうした情報化時代を背景に 「一人にしておいてもらう権利」という消極的な面だけでなく、 「自己の情報をコントロールする権利」 として積極的な面をもつようになってきました [6]。ですから、 プライバシーと情報化社会を対立するものとして把握することは、 後ろ向きな考え方だといえるでしょう。

もう一つの重要な視点が、情報化社会がどこを目的に進んでいるのか、 ということです。ここで、少し難しい話になってしまいますが勘弁してください。 非常に単純化された経済学の理論では、 私たちの社会の商品やサービスのみならずあらゆる資源が「市場」 で取引されるものとしています。といいますか、 そういう資源が交換される場所を抽象的に「市場」と呼んでいます。 理想的に市場が機能すれば、 あらゆる資源はそれをもっとも必要としている人のもとに適切な価格で配分され、 もっとも社会の厚生(幸福や利益)を最大化するものとされています。

ところが、現実の世界をみてみますと、世の中のいろんな資源は無駄に消費され、 本当に必要とされている物が必要としている人のもとに届きません。 現実には市場は理想的に機能していないのです。その理由として経済学の理論では 「情報の非対称性」と「取引費用」を挙げています。

「情報の非対称性」とは、取引される資源の性質や価値について、 売り手と買い手では、 売り手の側には詳しく分かるけれども(だって自分が手許にもっているのですから)、 買い手の側には良く分からない(だってこれから買うんですから)という問題です。 買い手の側に情報が欠けているので、 買い手は誤って不要なものを買ってしまうかもしれませんし、 実際の価値よりも高く買ってしまうかもしれません。

「取引費用」とは、取引が実現されるまでにかかる時間や手間のことです。 皆さんが新しいステレオを買おうと考えたとき、 たくさんのカタログを集めてきて比較検討しますね。 そしていくつかの候補に絞り込んだ後、お店をまわって実際に商品を確かめ、 値段の交渉をして最終的に購入するわけです。 こうした買い物は楽しいものかもしれませんが、 それを一種の仕事であると考えますと、ステレオを買う時、 その値段以上に費用がかかっていることに気がつくと思います。

こうして市場が機能するために「取引費用」がかかるため、 ある資源をもっとも必要としている人は誰か、 誰に資源を配分すれば最適な状態になるのかを即座に決定することが実際にはできな いわけです。逆に、 市場が理想的に機能してもっとも理想的な状態を達成するためには、 「商品の価格に関する情報がまったく費用なしに流通する」必要があります。これを 「完全情報下の市場モデル」と呼びます。

このモデルでは、企業が作り出した商品が、 それを必要とする人々にもっとも理想的に配分されることになります。しかし、 このモデルでは企業がどんな商品を作ればよいのかを、 あらかじめ知っていることが前提になっています。だから、実際の市場では、 私たちが欲しい新商品を適切に作り出して私たちの需要(欲求) を満たすことができません。したがってこの論文では、このモデルを 「静的な完全情報下の市場モデル」と呼ぶことにします。

これをさらにすすめて、企業が「次にどのような商品を市場に投入すれば、 より適切に消費者の需要を満たすことができるのか」 という問題を即座に解決できる状態を考えてみてください。 この状態を作り出すためには、 「消費者の需要に関する情報がまったく費用なしに流通する」 必要があることがわかるでしょう。これをこの論文では、 「動的な完全情報下の市場モデル」と呼ぶことにしましょう。

このモデルでは、プライバシーは存在しえません。 私たちの生活にプライバシーがない状態とは、他の人々が私たちそれぞれの生活習慣、 嗜好、健康状態、経済状態などについて完全に知っていることを意味しています。 仮に私たちがそうした私生活の公表について精神的な抵抗感がなく、 また私たちの情報を知る他の人々が私たちの私生活に関する情報を、 私たちの利益のために活用してくれれば、 社会的厚生はより理想的な状態に近づいていくわけです。

そうした社会では、誰もが私たちの生活について思いはかり、 いろいろと先回りしてくれることになります。体調を崩した人には、 医療カウンセラーがいつのまにかやってきて適切な指導をしてくれます。 おなかが空いたら、レストランガイドがテレビの画面に現れて、 デリバリーしてくれるピザ屋さんやラーメン屋さんのリストが電話番号付きで現れる でしょう。もしかすると、あなたの味の嗜好を加味して、 もう注文がおわっているかもしれませんね。 ガールフレンドがいない男の子のところには、 ボーイフレンドがいない相性ぴったりの女の子のプロフィールが電子メールで送られ てくるかもしれません。こうしたサービスは「プライバシーの侵害」 だと考えられています。でも、そうしたことをまったく気にしなければ、 便利であることには違いありません。

今でも、一人暮らしのお年寄りのために、24時間部屋の中を監視カメラで監視したり、 体調を調べるために毎朝、 脈拍や血圧のデータをお医者さんのところに送るサービスができないか、 と研究されています。こうした研究において、 お年寄りのプライバシーということはほとんど問題にされていないようです。 なぜかといえば、お年寄りの健康や生命のためには、 24時間の監視体制のほうが重要だからです。プライバシーを強く主張するお年寄りは、 場合によっては、 誰にも知られずに独りで亡くなってしまう覚悟をしなくてはなりません。当然、 そうであることを望むお年寄りも確実にいるはずです。

実際のところ「情報化社会」という夢が描いている先にあるのは、 こうした社会なのです。単純化していえば社会の情報化は、 私たちがどの程度までプライバシーを放棄し、 情報化社会の恩恵を享受するのかを選択することを私たちに迫っているのです。 法律でいかにプライバシーを保護したとしても、情報化社会の恩恵を享受するために、 私たちはプライバシーを自発的かつ部分的に放棄することになるのです。

わかりやすい例として懸賞があります。懸賞の賞品が欲しければ、自分の氏名、住所、 電話番号、性別、年齢、 はては私的な事柄に立ち入るアンケートに答えなければなりません。もし、 そうした種類のプライバシーを維持したければ、 私たちは賞品をあきらめなくてはなりません。また、 情報化社会の先端にあるインターネットでは、 私たちがあるWebページを閲覧しているとき、そのサイトは、 私たちがどのような種類の情報を閲覧しているのか、静かに記録しているのです。 便利なインターネットの裏側には、私たちの行動を記録するシステムが控えています。 もし、記録を取られることが嫌なら、インターネットは使えません。

でも、それは、私たちが玄関から出て表を歩けば、隣のおばさんが「あら、 シンちゃん、お出かけね」と声をかけてきたり、 日曜日デートをしたら月曜日に友達から「おまえ昨日、 中央公園でマユミとデートしてただろ」 と冷やかされることと同じことなのかもしれません。 事実は事実として隠してしまうことは不可能ですし、 人は人と関わりながら生きていくものだからです。

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6 私たちの選択と覚悟

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では、情報化社会の恩恵を受けるために、 私たちは自分に関するすべての情報を公開しなくてはならないのでしょうか? 社会には正直かつ善良な人ばかりがいるわけではありません。また、 善良な人が突然あなたを裏切るかもしれないのです。むしろ、 高度な情報機器を手にした人達の大部分がどんなことをしているかを考えてみますと、 ろくでもないことに利用される可能性の方が高そうです。

私たち自身に関するあらゆる情報が誰かに把握されているということは、すなわち、 その誰かに私たちが支配されていることを意味します。 私たちが自発的に選択していると思っている事柄も、 実際には私たちの情報を把握している誰かが、 巧みに私たちを誘導しているのかもしれないのです。そうしますと、 こうした悪意ある人々から自らを防衛するためには、盾としての 「プライバシーの権利」を強化することが必要となるわけです。

現在私たちの身の回りで「プライバシーの権利」の強化が叫ばれているのは、 こうした社会的変化を背景にしているわけです。 社会を理想状態に導く可能性のある技術としての情報技術の発達は、 私たちの情報能力を向上させ、 社会全体としてみたときの情報力のバランスを私たち個人に有利に変動させた一方で、 その強力な武器が私たち自身の自由と平穏を脅かす結果となっているわけです。 困ったことです。そこでとりあえずの対策として、 主として個人生活を脅かす盗聴機や隠しカメラのような道具の使用を禁じることなど が検討されています。このような私的領域への侵入は、 プライバシーの権利を主張するまでもなく、 これまでも犯罪として取り締まられてきた領域ですから、 この方面からの対処が今後も進んでいくことでしょう。

ここで、もう一度考え直してみましょう。

盗聴や隠し撮りなどの通常でない方法で情報を取得することは、 犯罪性があり容認されるものではありません。また、合理的な必要性もないのに、 自分のもつ情報力を利用して世間にひろく他人の私生活に関する事実を伝達すること も、その方法によっては、脅迫や名誉毀損などの刑事罰に該当するでしょう。 実際のところ「プライバシーの権利」を保護するために制定されている各種法律は、 こうした情報取得、情報伝達の方法を取り締まるものとなっています。 事実を事実として伝えることを禁じることは、 言論の自由を侵してしまう結果となるからです。

このように考えてみれば、わかりやすいかもしれません。私たちは 「他者が受け取る自分に関する情報」 をコントロールする権限を持っているのでしょうか? これは逆にあなたが持っている誰かに対する評価を、 その誰かによって決定されるべきことを意味しています。あなたの考えや意見は、 あなた自身のものであるべきです。とするならば、 逆に誰かの考えや意見にあなたが干渉することはできないことになります。

犯罪をおかした人がプライバシーを盾にその事実を秘密にすることができ、 社会で易々と生きていくことができる、というのは問題です。 犯罪は犯罪として事実であり、 その事実に基づいて不利益をうけることが自らの過ちに対する責任というものでしょ う。それでは、社会的に非難されるような行動を隠れてしている人が、 それが私的領域に止まっているから構わないのだ、 すなわちプライバシーだから構わないのだということは、どうでしょう? このように書くと、みなさんは「それは良くない」と考えるでしょう。

では、その社会的に非難されることというのが、たとえば男性による「女装趣味」 だとしましょう。男性が女性の衣装を身に着けて化粧をすることは、 なんら犯罪ではありません。しかし、社会的にはいろいろな非難を受けます。だから、 そうした趣味を持っている人たちは、 それを私的領域のなかに止めてプライバシーとしています。しかし 「なぜ男性が女性の衣装を身に着けてはいけないのか」 と尋ねられるとちゃんと答えられる人はほとんどいないのではないですか? [7] 私たちの社会には、 根拠や理由のない偏見が多数存在します。 プライバシーとして私的領域のなかに隠されていることのなかには、 こうした偏見のために閉じ込められている事柄が多数あります。もし、 私たちがそうした偏見を持たず、その人のありのままの個性を受け入れるならば、 むしろ陰の領域から表の領域に「ありのままの自分」を出すことができ、 そうしたほうが私たち全体の幸福に繋がっていくかもしれません。

プライバシーを盾に必死に自分を守らなければならない社会というのは、 言い換えれば、抑圧が大きい社会だということもできるわけです。 現代の私たちのプライバシー意識が高まっている理由も、 実は現代社会における抑圧がより広く身近になっていることの裏返しかもしれません。 情報化社会の脅威と危険を批判する以上に、 そうした根拠のない偏見と抑圧が存在する社会の改善も目指した方がよいのではない かと考えるわけです。

かつて宗教が社会的に大きな位置を占め、 信仰している宗教で激しい差別が行われていた時代には、 誰がどのような宗教を信仰しているかということは重要なプライバシーでした。でも、 日本のように宗教が占める位置がほとんど希薄な国では、 誰がどんな宗教を信仰しているのか、 ということはほとんど気にされることはありません。もし、頭が禿げているか、 禿げていないか(なんてくだらないこと!)をみんながまったく気にしなくなったら、 禿げている人が自分のことを恥ずかしく思ったり、隠したりする必要はないわけです。

また、 理論的に理想的な状態を達成するために完全情報状態が必要であると先に述べました。 ところが完全情報状態というのは、 単に情報が多いということを意味しているのではありません。 それが完全に正確であるということも必要です。嘘の情報や誤った情報は、 私たちの判断を誤らせ市場が正しく機能することを妨げます。

無実の人が噂で犯罪者であると指摘されて、 ありもしない罪を着せられることは問題です。 これは情報が誤っていることから生じます。私たちは噂話が好きな一方で、 根拠のない情報をすぐに信じてしまう、 あるいは確かめもしないで他人に伝達するという悪い習慣をもっています。 これまで情報力を握ってきたメディアは、その良心、 すなわち職業倫理としてまた職業上の責任として、(1) 情報収集においてはしっかり取材して証拠・根拠を確認する、(2) 情報発信においては社会的影響について吟味することを行ってきました。 こうした良心があったために、マス・メディアは巨大な権力を握りつつも、 その弊害をできるかぎり小さなものに止めてきたわけです。

情報化社会の初めの段階にいる私たちは、 自分達が獲得した情報力を正しく使うだけの心構えができていません。 根拠のあやふやな怪しげな情報をそのまま鵜呑みにしたり、 誰がどんな迷惑をこうむるかを全く考えずに情報発信をすることが、 情報化社会の弊害を大きなものにしています。プライバシー侵害による被害は、 私たちの好奇心、噂好き、のぞき趣味によって何倍にも拡大します。 「誰と誰が付き合ってるやらいないやら、どうでもいいことだ」 と私たちが割り切ることができれば、それはプライバシーの問題から、 単なる事実へと縮小していきます。

私たちが直面しているプライバシー問題を一気に解決するためには、 情報化社会への移行を止めてしまうことも選択としてはありえます。 しかし情報化社会への移行が止められないなら、 そしてそれが私たちの幸福に寄与するものであると考えるならば、 それに対応した私たちの心構えが要求されるわけです。 ここでこれまで述べてきた事項を整理しておきましょう。

第一に、事実が事実として誰かに知られることは、 やむを得ないことであるという覚悟が必要でしょう。これは情報化社会に限らず、 あらゆる時代に妥当することです。

第二に、情報技術の発達に対応して、 プライバシーの権利はより広く強いものへと拡大されていくでしょう。これは、 バランスをとるという観点からして妥当な方向性です。しかし、その一方、 情報社会の恩恵を受けるために、自分のプライバシーをどの程度放棄するのか、 という自己に関する情報をコントロールする能力と判断力を身につけなければなりま せん。これは権利として担保される以上に、 具体的な能力として身につけなければならないわけです。

第三に、情報化社会においては、根拠のない偏見を捨て、 他者をひろく認めうけいれる気持ちを持たなければなりません。 ささいな違いで他者を差別し攻撃する社会は、 情報化の進展とともにおそろしい監視と密告の社会へと変貌します。 情報化社会への移行にもっとも必要な社会基盤は、 他者の存在を受け入れる精神なのかもしれません。

第四に、情報化社会に参加する私たちは、受け取った情報について常に検証し、 根拠がはっきりしない情報は相手にしないという態度が要求されるでしょう。これは、 噂やデマを流されて困っている人を助けるということに加えて、 みなさんが詐欺や悪徳商法にひっかからないために必要な態度です。そして、 みなさんが自分の発信する情報に責任を取るという覚悟が必要でしょう。これは、 情報の発信がみなさん一人の行為に止まらず、 他者ひろくは社会全体に影響を与えうる力をすでに手に入れていることから生じる責 任なのです。

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7 おわりに

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プライバシーの問題は、社会的動物としての私たちの本性を動力として発生します。 したがってそれ自体として止めることはできません。「プライバシーの権利」は、 強力なメディアの力から私たち自身を守る盾として生じました。情報技術は、 社会全体の情報の力を増大させましたから、当然、盾としての「プライバシーの権利」 もまた強力にならざるえないのです。

しかし、新たに私たちが直面しているプライバシーの問題は、 私たち自身が盾だけではなく、「情報をコントロールする力」 という強力な矛も備えたことから生じている点がこれまでと全く違っているわけです。 したがって、情報化社会におけるプライバシーの保護は、 単なる盾の強化だけではなく、 矛をどう使うのかという積極面も重視しなければならないわけです。

その一方で、プライバシー侵害がなぜ私たちに不利益をもたらすのか、 という視点から考え直した場合、問題が発生する部分は、 実は私たち自身の情報の受け取り方にあったのではないかということが指摘されまし た。情報化社会は、 良きにつけ悪しきにつけ事実がひろく社会に伝達されていく方向に進んでいくものだ と考えられます。そうしたとき、プライバシー問題を解決する方法は、 情報を検証する態度、偏見を持たない態度に見出せるように思います。実は、 こうした態度こそが情報化社会にもっとも必要とされる参加資格なのかもしれません。

Note

[1]
privacyという英語の形容詞形はprivateですが、 その起源はラテン語のprivoという動詞にあります。これは「他者から奪う」 あるいは「自由にする、解放する」という意味です。 すなわち他者の集合である公共から自らの領域として奪い、 自分の思うままに使用できる財産や領域を意味しているわけです。
[2]
Samuel D. Warren and Louis D. Brandeis, The Right to Privacy, Harvard Law Review, Vol. 4 No. 5, pp. 193--220, (1890) という論文がそのはじまりです。そののち裁判所が 「プライバシーの権利」を直接認めてきたわけではありませんが、 少しずつその考え方は一般的になってきました。そして1960年には、 William Lloyd Prosser, Privacy, California Law Review, Vol. 48, pp. 389-392, (1960)という論文で、(1)私生活への侵入、 (2)私事の公開、(3) 他人をして誤認を生ぜしめる表現、(4) 氏名や肖像の営業的利用という四つの類型にまとめられました。 そしてこの四類型を基礎に「プライバシーの権利」の内容は広がりつづけています。
[3]
日本で最初にプライバシーの権利を認めたとされる裁判は、「宴のあと」 事件 東京地方裁判所昭和39年9月28日判決 判例時報 No. 385です。
[4]
プライバシーの問題として取り扱われている事件には、 他に犯罪を犯した事実の公表に関するものや、 外国人登録にかかる指紋採取に関するもの、警察の捜査活動に関するもの、 住民票の記載に関するものなど幅広く存在することも事実ですが、 それらをプライバシーの問題として取り扱うべきかどうかについては、 私は疑問があると考えています。
[5]
軽犯罪法には、 これらの行為を違法とする規定があります。 軽犯罪法 1 条23号 「正当な理由がなくて人の住居、浴場、更衣場、 便所その他人が通常衣服をつけないでいるような場所をひそかにのぞき見た者」、 1条28号 「他人の進路に立ちふさがつて、 若しくはその身辺に群がつて立ち退こうとせず、 又は不安若しくは迷惑を覚えさせるような仕方で他人につきまとつた者」 は1日以上30日未満の拘置または 1000円以上1万円未満の罰金が科されます。 でも刑があまり厳しくないのでこうした犯罪を犯す人は増えているようです。
[6]
Alan Westin, Privacy and Freedom (1967)という本では、 「一人にしておいてもらう権利」 という伝統的なプライバシーの考え方では、 新しい時代に対応できないと指摘されました。ウェスティンは「プライバシーとは、 個人、グループ、または組織が、自己に関する情報を、いつ、どのように、 どの程度伝えるかを自ら決定できる権利」と捉え、プライバシーを 「自己情報コントロール権」であると主張しました。当然、 権利があるばかりでは実際に対応できませんから、私たち自身が 「自己の情報をコントロールする知識と能力」を身につけなければならないわけです。
[7]
私自身は、 誰がどんな格好をすべきかという点について、あまり気にしていません。 健康を害することなく似合っていれば良いと思います。 逆に危険で似合わない格好だけは止めておいた方がいいと皆さんにアドバイスします。 最終的には皆さん自身の美意識の問題になるわけです。 だから男性に対して女装を薦めているわけではありません。

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to Hideaki's Home 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 助教授
(Assistant Professor of Hosei University, Faculty of Social Science)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp