──書籍業者の戦争(前編)──
20 アイルランド・スコットランド書籍業界イギリスの書籍業界が独占者の権力に従属してしまっている間、 ロンドンのコンガーたちの思いもつかない場所で、 次なる法廷闘争の芽が成長しつつあった。 1710年頃のアイルランド(ダブリン)およびスコットランド(エディンバラ、 グラスゴー)の出版業界は、ロンドンの出版業界よりもはるかに未発達だった。 刊行点数は少なく、わずかな出版物にしても地方的な内容を取り扱ったものだった。 ところが、1730年代には状況が変化していた。 スコットランドとアイルランドのいずれもが、文化的・経済的に革新の時期を迎え、 この地域の出版物は大幅に増加していたのである。 これらの出版物を販売するための市場が必要だった。そこで、 これらの地域の出版業界は、 ロンドンからの書籍の供給が順調とはいえなかったイングランド北部へと進出した。 このようにして、スコットランドおよびアイルランドの出版業者たちは、 ロンドンの書籍業者たちがコピーライトを保有していた売行が良いいくつかの書籍を 海賊版にして、 イングランドに輸出するようになった [1]。
20.1 制定法による対応1732年に1709年法による保護が満了しはじめた時、 再び1709年制定法は書籍業者たちの注目を集めるようになった。しかし今回は、 コピーライト保有者たちはそれほど慌てなかった。保有者たちは、 すでに1709年制定法で自分たちの財産権が認められたと考えられていたので、 あとは議会に請願を提出して、 保護期間の延長を認めさせればよいと考えていたのである。そこで、1710年以前のコピーライト保護が失効してから、3年後の1735年3月3日に、 書籍業者たちからの請願が庶民院に提出された。 その請願では次のように述べられていた。
内容に優れ、有用な書籍を印刷し出版する費用のために、しばしば著作者は、 財産を費すことを余儀なくされる。ところが、そのような書籍の著作者、 および譲受人の財産は、大ブリテンのみならず、 イングランドよりも半分の費用で紙を調達することができる海外での不正な編集や印 刷で、近年そして現在も損害を被っている.... そしてまた、 そのような海外における不正な印刷や輸入をより効果的に防止するために.... [2]という建前で、1709年制定法の改正草案を提出する許可を求めたのである。 この請願を付託された委員会は、12日には報告書を提出し、 この中で主としてアイルランド出版業の海賊版による被害を報告した。 先に述べたアイルランド・スコットランド印刷業の成長が、 地方の市場においてではあるが、 イギリス印刷業に影響を及ぼし始めていたことが示されたのである。 アイルランド出版業者は、コピーライトの使用料を支払わなかっただけでなく、 書籍の輸入関税に比較して高額の関税を紙に課していたイギリスよりも、 アイルランドでは安価に紙を入手することができた。このため、アイルランド書籍は、 イギリスのものよりもかなり安く販売されていたのである [3]。 この報告で示された海賊版による被害の例は、 ロンドンの書籍業者によって準備されたもので [4]、 被害を強調するように作文されていた可能性が強いが、 ロンドン出版業の営業利益に被害が生じていたことは事実だったのである。 委員会は書籍業者たちに草案の提出を許可した。 そして書籍業者たちが提出した草案には、1710年以前のコピーライトについて、 さらに21年間の保護を認める条項が盛りこまれていたのである [5]。この草案は、 永久のコピーライトを事実上認めるものとして理解された。そこで、 庶民院では1735年5月の審議で賛成163反対111で可決されたものの、貴族院で、 第二読会を次々に引き延ばすというやり方で破棄されてしまったのである [6]。 1736年2月には、再び草案が庶民院に提出された。その草案は、 庶民院では賛成150反対87で可決された。このとき、法律の表題は「指定された期間、 著作者および彼の権利の執行人、管理人、 譲受人の書籍印刷の独占権をより効果的に保護することで、 学問を振興するための法律」(An Act for the Encouragement of Learning, by the more effectual securing the Sole Right of printing Books to the Authors thereof, their Executors, Administrators, or Assigns, during the Times therein mentioned;....) [7] とされていた。 この法律では、1709年制定法の保護が十分でなかったと述べる。そして、 1737年6月24日以降、著作者と彼が権利を譲渡した譲受人は、 著作者の生存中のコピーライト保護に加えて、(1) 本人が出版の日より10年以上生存していた場合には死亡後7年間、(2)また、 出版の日より10年未満で死亡した場合には死亡後21年間、(3)さらに、 死後に発見された作品については発見後21年間の保護が与えられるとする。さらに、 (4) 著作物の価値が明らかになるのは出版後相当期間が経過した後であることがしばしば であるので、著作者はその作品の価値を知らず権利を売却してしまう。また、 権利を売却してしまうと、作品の変更や訂正ができなくなる。そこで、 1737年6月24日以降、著作者は、遺言による場合を除いて、 10年以上のコピーライト譲渡契約を結ぶことができないとした [8]。 この草案からうかがわれるのは、 コピーライトが著作者本人の生命に連動する財産権であるという理解が生じているこ と、一方、それが商業利用される場合、 著作者本人が死亡した後も一定期間の独占権を付与することが正当だという理解があ ること、さらに、完全に権利を譲渡してしまう事を禁止することで、 著作者の利益を実質的に保障しようとはかっていることである。 1709年制定法の趣意文の文言が影響を与えているといえよう。 ところが、 この法案も貴族院で否決されてしまった [9]。そこで、書籍業者たちは、 目下の問題である国外における海賊版印刷を抑制するために、 草案の内容を国外印刷図書の輸入禁止に絞りこんだ。つづいて、 1738年4月24日に外国出版物の輸入の禁止と、 出版物の価格適正化に内容を絞った草案が提出されたものの、 やはり貴族院で否決された。最終的に、1739年4月6日に提出された、 国外印刷図書輸入の禁止と、 1709年制定法に規定された価格統制機関の廃止を内容とする草案が両院を通過し、 7年間の時限立法として「大ブリテンで最初に執筆され、印刷された書籍であり、 かつ国外で再版された書籍の輸入を禁止する法律」 (An Act for prohibiting the Importation of Books reprinted abroad, and first composed or written, and printed in Great Britain.)[10] として 1739年9月29日から施行された [11]。この制定法での罰則は、 1709年制定法の罰則よりも大幅に強化されていた。まず、 この法律に違反して輸入された書籍が没収されるのは当然として、 違反ごとに5ポンドの罰金が科され、さらに没収された書籍の価格の倍額が科された。 しかし、この法律は、外国の出版物が不正に輸入され販売された後、 民事裁判に訴えなければならなかったので、 その法律が適用された例はほとんどなく [12]、 有効に機能しなかったのである [13]。
21 書籍業者の戦争「書籍業者の戦争」で問われたのは1709年制定法の保護が満了した後、 コピーライトがどのような状態になっているかということだった。 1709年制定法の文言に従えば、ロンドン出版業界の敗北は明らかだった。 そこで彼らはコモン・ロー上の財産権を主張することになる。 「それは著作者が創作者として自然法にもとづいて獲得した財産権であり、 永久の権利である」と。この論法によって自然権である「著作者の権利」 と産業上の独占権である「コピーライト」が結合されることになった。 最初の事件は、1750年2月11日に貴族院で判決が出されたミラー 対 キンケイ他 (Millar v. Kincaid et Al')事件 [14]である。 この事件では17人のロンドンの出版業者が原告となり、 24人のエディンバラとグラスゴーの出版業者を訴えている。 この17人のロンドンの出版業者はおそらく、後の[???] 節で詳述する反輸入書籍運動機構の構成員と同じ顔ぶれだと思われる。この事件は、 ロンドンの出版業者がスコットランド海賊版によって受けた得べかりし利益の損害に ついて争われたものである。問題となっている書籍は、 書籍業カンパニーの登記簿に登記されておらず、また、 すでに1709年制定法の保護が満了していたようである。貴族院は、 この訴訟で主張されている損害が存在しない、すなわち、 得べかりし利益については損害とならないと判示したのである。 ロンドンの出版業者は、再審を嘆願した。そこで貴族院は 「制定法の規定とは独立して存在する権利については、 スコットランドの法で判断されるべきである」 と事件をスコットランド民事上級裁判所に移管しようとした。 ロンドンの出版業者たちは、裁判が不利になることをおそれて、コモン・ ロー上の権利についての主張を、制定法上の権利についての主張に切り換えた。 このことは被告側にとっても好都合であり、 事件は主として1709年制定法の文言に基づいて進められることになった。 その結果として、1709年制定法2条の規定「保護が適用されるためには、 その書籍を書籍業カンパニーの登記簿に登記しなければならない」、同10条の規定 「侵害が行われてから3ヶ月以内に訴え出なければならない」 という要件を満たさなかったため、訴訟が存在しないとされ、 門前払いとなってしまったのである。 そこで原告は、大法官府に訴えた。大法官府は、多数の差止命令を発給した実績から、 あてにされたのだろう。そして、 「1709年制定法で与えられている権利は罰則についてのみのものである」 という消極的な判決を得ることができた。ロンドンの出版業者たちは、 これを裏から解釈し、1709年制定法が罰則のみであるならば、 財産権については暗にコモン・ロー上の権利を認めたものである、 と主張し再び貴族院に再審を申したてた。しかし、 またもや門前払いを受けてしまうのである。 ついで、1739年から訴訟が続いていた、 1709年制定法の保護が満了しているミルトン詩集の出版に関するトンソン 対 ウォー カー(Tonson v. Walker)事件の1752年4月25日の審理 [15] がかなり詳細に報告されている。この審理では、法務総裁(Solicitor-General) が原告側から弁論している。この弁論で法務総裁は、三つの論点をまとめている。
English Reports [18] を参照する限り、法廷でコモン・ロー・ コピーライトが正面から主張されたのはこの事件が最初である。しかし、 大法官ハードウィック(Hardwicke)卿は、コモン・ロー・ コピーライトについての一般的言及を避け、 原告のミルトン詩集に追加されていたニュートン(Thomas Newton) 博士の注釈が1709年制定法の保護期間に該当するか否かに問題点を絞り、 1709年制定法によってニュートン博士の注釈部分について保護が認められると判断し たようである。そこで事件は、 被告ウォーカーが新たに追加した注釈がミルトン詩集自体を新しい作品する程度の貢 献であるのかが問題とされ、事実問題として審理された。 その結果ウォーカーが新たに追加した注釈が1500以上の注釈のうち28にとどまること が明らかとなり、暫定的差止命令が発給された。 この事件での大法官の意見は次のようにまとめられる。
22 反輸入書籍運動機構一方、この法廷での争いと平行して、ロンドンの書籍業者たちは、 スコットランドやアイルランドの書籍業者たちとの書籍流通上のかけ引きや交渉も行 っていた。そこで、まず、 この時期にロンドンの書籍業者たちがどのような交渉を行っていたのかを概観する。 1759年には、ロンドンの書籍販売業者ウィストン(John Whiston)が中心となって、 コンガーたちが反輸入書籍運動を展開するための機構を設立していた(ただし、 ウィストン自身はその機構の幹部にはなっていない)。そして、 この機構は直ちに活動を開始した。最初の活動は、 イングランド辺境部でスコットランド版やアイルランド版を取り扱っていたイギリス 国内の書籍販売業者たちを再びロンドンの書籍流通機構の中に組みいれることだった。 1759年4月23日にウィストンが地方の書籍販売業者たちに配布した警告文では次のよ うに述べられている。
我々は、最初にイングランドで印刷された本が、 スコットランドやアイルランドで出版され[イングランドで] 販売されることを阻止するための機構を作りあげた。 そして直接行動を遂行するために、2000ポンド近くの資金が集められている。 違法出版に悩まされている全てのイングランドの書籍業者たちは、 最大の熱意を持って大法官府に訴え出るだろう [19]。この運動のための資金は最終的に 3150ポンド以上になったという [20]。この資金への出資は、 ロンドンの書籍販売業者たちの間で、「踏み絵」の役割を果たしたようである。 この出資に参加しなかったウォラル(John Worrall) は完全に書籍取引から排除されてしまった [21]。 ロンドンの書籍取引業界の閉鎖的な性質が現れているといえる。 また、その警告文には、1759年5月1日を不法書籍の返却期限と定め、それ以降 「検査官」(riding officers) が地方の書籍販売業者の在庫を検査するために全国を巡回する。もし、 スコットランド版やアイルランド版が発見されたならば、 1739年制定法に基づいて法的手段をとる。また、違反業者に対しては、 取引を停止する、 という内容が記されていた [22]。 さらに1759年11月2日に、スコットランド(グラスゴー)の出版者ウリー (Robert Urie)と契約を結んで、 スコットランド書籍の販売に従事していたケンブリッジの書籍販売業者メリル (Thomas Merrill)と息子ジョン(John)にあてて、 ロンドンのコンガーの代表者ウィルキー(John Wilkie) から一通の警告文が届けられている。その内容は、要約すれば ロンドンの書籍業者が保有しているコピーライトに反して、 スコットランドとアイルランドで海賊版が印刷されている。このため、 著作者やコピーライト保有者が損害を受けている。そこで、 ロンドンの書籍業者はこれらの違法行為に対して、適切な法的手段に訴えている。 しかし、より穏健な手段によって、この問題を解決することを望むので、もし、 輸入海賊版をすでに在庫していたならば、 ロンドンの書籍業者がそれを原価で引きとってもよいし、 合法的に印刷されたロンドン版と同数で交換してもよい。そして今後、 不正な出版物を取り扱わないように。仮に、 この提案の後にも不正な出版物を扱うならば、 法的手段に訴える [23]。という内容だった。 数千ポンドの費用を以ってしても、 検査と訴追からなる反輸入書籍運動を長期にわたって維持することは不可能だった。 そこで、11月の警告文のような穏健な手段が採用されたのであろう。したがって、 先の4月の警告文が地方の出版業者が不法書籍の取引に従事しないように脅しをかけ る以上のことを実際に意図していたかどうかは疑わしい。 先に述べたように1739年制定法によって訴追された例はほとんど無かったのである。
23 1760年のトンソン 対 コリンズ事件1711年にスティール(Sir Richard Steele) [24] とアディソン(Joseph Addison) [25] によって創刊された新聞 『スペクテイター』(Spectator) は、18世紀を通じて人気の高い出版物だった。と、 いっても18世紀を通じて『スペクテイター』が定期的に刊行されていたわけではなく、 定期発行は1712年に終了していた。その後は、 これに掲載された論文を収録した本が繰り返し再版されることで人気を維持していた のである [26]。 スコットランドを中心にこの『スペクテイター』の海賊版が多数印刷された。 先に登場したグラスゴーの海賊版出版者ウリー(Robert Urie)も、 後に多数の裁判の被告となる確信犯的海賊版出版者ドナルドソン (Alexander Donaldson)も、この『スペクテイター』 の出版を行っていたほどである [27]。 トンソン 対 コリンズ(Tonson v. Collins)事件 [28](以下、 「1760年トンソン事件」)は、この『スペクテイター』 のスコットランド海賊版をめぐって王座裁判所に提起された。 王座裁判所に裁判が持ちこまれたことは、ついにコピーライトがコモン・ ロー上の権利であるか否かについての検討が始まったことを意味する。 『スペクテイター』は1711年に創刊された後、1712年には、 ロンドン書籍業界の有力者 故トンソン(Jacob Tonson)によって買取られ、 継続して出版され続けていた。故トンソンは、 このコピーライト購入を直ちに書籍業カンパニーに登記した。この権利は、 相続によって息子と思われるトンソン(Richard Tonson)に譲渡されていた。 こちらのトンソンは、 先に述べた反輸入書籍委員会の幹部でもあった [29]。 一方、被告コリンズ(Benjamin Collins)について素性が明らかでない。実は、 彼にはこの事件全体を転覆させるような秘密が隠されていたのであるが、 このことについては事件の最後にふれることにする。この被告が、1759年4月と5月に 『スペクテイター』を出版したことは陪審の個別票決で確定していた。 『スペクテイター』に与えられる 1709年制定法の保護は、とうに満了していたから、 事件はもはや制定法上のコピーライトではなく、コモン・ロー・ コピーライトについて争われることになった。
23.1 ウェダーバーン弁護士の主張さて、法廷で原告側弁護士ウェダーバーン(Alexander Wedderburn) は次のように弁論した。
著作者たちの権利が確立することは、反面、 出版業者たちの収益が削減される危険があるはずである。それにもかかわらず、 出版業者の弁護士が、著作者の権利を主張することは奇異である。この理由として、 前稿17.1節で見たように、 著作者たちの権利拡張の試みを流通独占という方法で抑えこむことに成功していたこ と、また、著作者の権利を前面に主張することが、被告側からの「コモン・ロー・ コピーライトの承認は永久の独占を認めることにつながる」 という批判をかわすために有効だったことが考えられる。出版者たちが、 永久のコピーライトを保有することが「独占でない」とするためには、 著作者が保有している自然法上の財産権が、 正当な取引によって出版者たちに譲渡されていると構成するしかなかったからである。 また、著作者の権利を財産権自体に絞りこんだのは、 出版業者にとって経済的利益以外必要なかったからであり、著作者の権利を盾に、 営業利益の保護をはかる出版者の意図が露呈している。 ウェダーバーン弁護士の弁論において奇妙さで注意を引く点がある。(4) の部分について弁論しているときに、彼は「一つの勅許については [国王の費用によって作成されたり、 誰のものでもないためにコピーライトが国王に帰属するという] 準則から全く外れている。それは法律書印刷の勅許である。 私はこれが基づいている原理について説明することができない」 [30]と述べている。 法律が国王の費用によって作成されており、また、 裁判官などへの給与が国王によって支払われていることから、 法律書の印刷についての財産権が国王に原始的に帰属することは、 1664-1667年の勅許権者事件[31] 以来の定説であり、彼がこれを知らないはずはない。 また、これにつづいて、検閲法の原理について論及した後、「それ[法律書印刷]は、 法律書の著作者がそれを印刷することを、特定の人物[法律書印刷勅許権者] に制限してしまったものである。このことは、[著作者の] コピーライトを奪ったものではない。」 「[法律書の印刷に関する権原が国王に存するという判例について] これらの事件は不当に報告されている。 それらはすべて勅許に由来して権利が存在するようにされているが、 それは法律書印刷勅許権者がこれに関する議論を一面からのみ印刷したからである」 [32]と述べている。現代の我々は、 これらの「不当に報告された」訴訟記録に基づくしかないので、 この点について判断できないが、ウェダーバーン弁護士が、 法律書のコピーライトを法律家自身に帰属させるべく、 論を展開していることは明らかなのである。 すると、ウェダーバーン弁護士が「著作者の権利」 を強調する理由がもう一つ見つかったことになる。彼は原告の弁護をするかたわら、 法律書印刷勅許権者の特権から、法律家を解放し、 著作者として法律書の印刷から上がる収益を獲得することを目指しているのである。
23.2 サーロー弁護士の主張つぎに、被告側弁護士サーロー(Edward Thurlow)の主張を参照する。
23.3 判決原告側ウェダーバーン弁護士と、被告側サーロー弁護士の主張を比較すると、 曖昧に存在していたコピーライトを、自然法論およびコモン・ローの立場から、 それが黙示的に存在していたと解釈する立場と、実証法論およびローマ法の立場から、 それが明示的に存在していなかったと解釈する立場の論争であることがわかる。さて、原告・被告両者の弁論の後、首席裁判官マンスフィールド卿(Lord Mansfield, William Murray) は次のように述べた。(1)この事件は、 一層の議論のために継続させる。(2) 大法官府で一貫して差止命令が発給された事実は、 権利の存在を前提にしていることから、この事件でも財産権の侵害が認められる。 この事件は、未決のまま翌年1761年のトンソン 対 コリンズ(Tonson v. Collins) 事件[33](以下、 「1761年トンソン事件」)に引き継がれるのである。
24 1761年のトンソン 対 コリンズ事件
24.1 イギリス法釈義さて、この裁判で、原告側弁護士がブラックストンに交替している。 ブラックストンはこの事件のすぐ後、主著『イギリス法釈義』 (Commentaries on the Laws of England, 全4巻 1765-1769)を出版することになる。 この『イギリス法釈義』第2巻、26章「占有による人的財産についての権原について」 (Of TITLE to THINGS PERSONAL by OCCUPANCY) 8節で、 とくにコピーライトについて言及している [34]。「コピーライトの史的展開(4) ──検閲制度からのコピーライトの分離──」11.1.3節~脚注29で述べたように、 法律書で“copyright”という単語を用いたのは、この本が最初である。この 『イギリス法釈義』がそののち永きにわたって、イギリス、 アメリカ両国の法律学基本書として愛用されたことから、 この定義が与えた影響力は絶対的なものだった。コピーライトの概念は、 この本と共に一般的なものとなったといっても過言ではないだろう。この1761年トンソン事件が比較的長い記録であるために、時間的順序は逆になるが、 言及部分としてはるかに短い『イギリス法釈義』 でのブラックストンのコピーライト観を概観した後、 1761年トンソン事件を参照することにする。 まずブラックストンは、財産権の基礎を労働(labour)と発見(invention)におく、 つぎに、頭脳による占有(occupancy) は他の形態の占有よりも確実なものであるとする。 そしてその理論的根拠としてロックの所有権論 [35]を主に援用する。一方、 この著作者の権利(right of author)は、コモン・ ローで直接的に決定されているものではないと述べる。しかし、 (1)1709年制定法によって保護されていない作品についても、 数多くの大法官府における差止命令によって、 この財産権の侵害が禁じられていること、(2)また、 コピーライトの存在を認めた制定法が複数存在したこと、(3) 国王大権コピーライトがコモン・ロー上で認められてきたことから、 著作者の権利は構成されていると説明する。また、1709年制定法は、 著作者およびその譲受人の財産権を保護するために罰則を規定したものであると説明 し、制定法の規定とは独立に権利が存在していることを暗示する。 そして、次のように著作者の権利を説明する。
24.2 ブラックストン弁護士の主張以上のようなブラックストンの理解を考慮に入れながら、 1761年トンソン事件での彼の主張を検討する。ブラックストンは冒頭の問題設定で、「その[著作者の]権利は、 譲渡によって現在原告に存している」と述べ、いきなり問題を「著作者の権利」 の検討にもちこんでいる。そして、 問題となっている財産権について次のように整理する。 [I]理論上の根拠
ブラックストンの弁論で明らかになるのは、『イギリス法釈義』でも見たように、 「著作者の権利」と「コピーライト」を使い分けていることである。[I] 理論上の根拠の部分では、 “copy-right[37]” という単語は用いられていない。このことから、 主としてロック流の財産権を援用する自然権から導かれるのは「著作者の財産権」 であると考えられるだろう。一方、[II]コモン・ロー上の根拠の部分では “copy-right”が頻繁に登場する。そこでは、“authors perpetual copy-right”、 “copy-right in author”、“copy-right in Crown”、“prerogative copy-right” というように用いられている。すると、彼が主張するコピーライトとはコモン・ ロー上で認められた出版に関する財産権を指し、これについては必ずしも著作者の 「発見と労働」という根拠を必要としていないものと思われる。というのは、国王も (1)国家の安全の目的(例えば聖書など)(2)国王の費用による制作 (例えば法律書など)(3)無主物の国王への帰属(例えば暦など) などの理由によって、「発見と労働」 という自然権上の財産権取得の要件を満たすことなく、 コピーライトを保有するものとして説明されているからである。 また、興味を引くのは、[I]-(5)、[I]-(6)の論拠である。(5)で、 「著作者が概念を記述し出版すれば、聴衆にそれを述べる排他的特権を放棄」 するとして、購入者が書籍を自由に利用することができる根拠について説明する。 一方、出版を「著作者が自身の分身を作りだす」作業とみなし、(6)で、 その分身を作りだす作業が著作者に専属すると説明し、 著作者の許可のない複製を禁止する根拠とする。この 「書籍が著作者自身の分身である」という発想は、 著作権=人格権論に近い発想である。 コピーライト法に著作者人格権規定を置かないアメリカ法系著作権法理論の起源にこ のような説明がなされていたことは、 著作権を人格権から説明する論者にとっては注目すべき事実だと思われる。 また、 ウェダーバーン弁護士が国王大権コピーライトの原則から外れていると主張した ([???]節参照)法律書印刷勅許について、ブラックストンは、勅許権者事件 [38] に言及して、 「法律が国王の費用によって作成されるが故に、 国王が法律書のコピーライトを保有する」とする定説を述べる。しかし、 「私はこれらの理由付けが正当なものだとは思われない」 [39] と主張し、 やはり法律書についての国王大権コピーライトの考え方を批判しているのである。 ウェダーバーン弁護士が批判し、さらに、ブラックストンが、 先行する大法官府の判例に正しく言及しながら、これを批判していることから、 この時期、 法律家の間で法律書についての国王大権コピーライトに対する批判的な意見が一般的 だったということが可能かもしれない。法律書印刷勅許が存在する限り、 最も不利益を受けるのは法曹であるから、この推測は無理なものではないと思う。 さらに、このトンソン事件でのブラックストンの弁護が1761年であり、 彼はその4年後に『イギリス法釈義』を出版していることも指摘しておきたい。
24.3 イェーツ弁護士の主張つぎに、被告側弁護士イェーツ(Joseph Yates)の弁論を概観する。イェーツ弁護士は、 「肉体の働きと同様に精神の働きが財産権をもたらすことに私は同意するが、 それらとは別の種類の財産権が権利者の行為によって一般に権利者にもたらされるも のだろうか」と述べる。つづいて、 著作者がその作品を公表する以前については通常の財産と同様に自由に処分できるが、 それが公表されるや「それらの財産権は一般的な世界共有(universal communion) に投げ出される」と主張する。すなわち、「別の種類の財産権」が指すのは、 「実質的に占有不可能なものについて財産権を認めること」であり、 これが財産権の一般理論に反すると主張しているのである。 そして次のように弁論する。 [I]理論上の根拠
このイェーツ弁護士の主張に対して、ブラックストンは反論を加えている。 これまでの論争での主張に、新しく追加されたものについて列挙する。
24.4 判決以上の原告・被告両者の主張が終了して、 首席裁判官マンスフィールド卿が判決を下すことになった。ところが彼は、 何らかの財産権が著作物について存在することを認めながらも、 またもや判断を留保してしまったのである。これらの2年にわたる裁判は、こののち財務府会議室裁判所(Exchequer Chamber) に送られ、そこで、最も上級のコモン・ロー法曹である「サージャント」 たちによって審議された。 そこでの全体的な意見としては原告側有利に傾いたと記録されている。しかし、 この財務府会議室裁判所での審議で、この事件が、 後の裁判を有利にするために企画された慣合訴訟(collusion) ではないかとの疑いがもち上がった。つまり、コリンズはコモン・ロー・ コピーライトを王座裁判所で確定させるためにもち出された傀儡だったのというので ある。後に、 この2年間にわたる訴訟費用はコリンズの分も含めてすべてトンソン持ちだったこと が明らかになった。このため、 トンソン事件は判決が出ないままにうやむやにされてしまったのである [40]。 こうして、コピーライト裁判史上最初の「著作者の権利」 が積極的に主張された裁判は無為に終わってしまった。 この驚くべき陰謀を見るだけでも、 ロンドンの独占的出版業者たちの経済力とコピーライト保護にかける執念がうかがわ れる。コピーライトおよび「著作者の権利」は、 その理論的根拠がいかなるものであるとしても、実体としては、 著作物から生じる莫大な利益をめぐる出版業者間の闘争の産物だったことが示せただ ろうか。 トンソン事件に続く、1765年のミラー 対 ドナルドソン(Millar v. Donaldson) 事件およびオズボーン 対 ドナルドソン(Osborne v. Donaldson)事件 [41] は、 いずれも反輸入書籍運動機構の構成員を原告に、 スコットランドの確信犯的海賊出版業者ドナルドソンを被告とした大法官府での事件 である。 トンソン事件での慣合訴訟でロンドンの書籍業界の評判が地に落ちたことも手伝って か、差止命令は解除された。しかも、大法官ノーシントン(Northington)卿によって、 「著作者が自分の作品について永久の財産権をもつと決定することは危険なことだろ う。というのは、そのような財産権は、彼に公表の権利を与えるだけでなく、 それを抑制する権利も与えるからである。そして、 最も優れた著作者の作品を保有している書籍販売業者は、[法外な値段によって] それらを完全に抑制してしまうだろう」 という付帯意見まで添えられることになってしまった。
25 ミラー 対 テイラー事件1769年4月20日 ミラー 対 テイラー事件(Millar v. Taylor)[42](以下、 「ミラー事件」)は、コピーライト裁判史上で、初めてコモン・ロー・ コピーライトの存在が認められた事件として有名である。 訴訟の目的となっているのはトムソン(James Thomson) [43]が創作した『四季』 (The Seasons)である。この作品は、1727年に著作者自身の費用で出版された。 トムソンは 1729年に『四季』のコピーライトを原告ミラーに売却している。 したがって、1766年には1709年制定法の保護期間はすでに満了していた。 しかしながら、原告ミラー(Andrew Millar)は、 1709年制定法の保護期間が満了していてもコモン・ロー上の権利が存在するとして、 『四季』を出版・販売していたテイラー(Robert Taylor)に対して、 得べかりし利益200ポンドの損害を主張し不法侵害(trespass) の訴を王座裁判所に提起したのである。 原告ミラーは、ロンドンの大手出版業者の一人で、 1759年に組織された反輸入書籍運動機構の幹部としてトンソンと同じ立場にあった人 物である。 彼は反輸入書籍運動の活動費として機構参加者のなかで最高額の300ポンドを出資し ている [44]。 このミラーという人物がどのような人物だったかについては、 次のような記録が残っている。 ロンドンの出版業者がスコットランドの出版物による被害に悩んでいたのと同様に、 スコットランドの出版者も、 彼らがコピーライトを保有する正規の出版物をイギリス市場で流通させる困難に悩ん でいた。そこで、エディンバラの出版業者の有志、ハミルトン(Hamilton)、 バルフォー(Balfour)、ネイル(Neill)は彼らがコピーライトをもっていたヒューム (David Hume) [45] の『英国史』 (History of England)をロンドンで出版することでイギリス市場への参入を企画した。 彼らは、1754年に代議士ウィルケット(John Wilket) という人物の紹介でロンドンの大手出版業者の了解を取り付け、ロンドンの「黄金頭」 (Golden Head)と呼ばれる地区に事務所を構え、イギリスでの『英国史』 の販売に乗り出した。ところが、 彼らも前稿17.2節でふれた学術振興協会と同じ過ちを犯した。彼らの『英国史』 の販売をミラーを筆頭とする反輸入書籍運動機構の幹部たちに任せてしまったのであ る。結果的には、『英国史』の宣伝活動はほとんど行われず、『英国史』 の売り上げは惨澹たるものになった。 エディンバラ出版業者たちは経営的に苦境に陥り、翌年には『英国史』 のコピーライトをミラーに売却してロンドン市場から撤退しなければならなくなった [46]。 ミラーたちロンドンの出版業者は経済的に何の損失も被らずに『英国史』 のコピーライトを手に入れ、 さらにエディンバラの出版業社たちが二度とロンドンに進出できないような打撃を与 えて追い出すことに成功したのである。 ここからうかがわれるのは知略に長けた実業家の姿であるが、 手法が公正なものかどうかについて筆者は疑問を感じる。 ミラーはミラー事件の第二審理の直後1768年6月に死亡した。このため、 遺言に基づき、妻ジェーン・ミラー(Jane Millar)および息子ウィリアム(William)、 そして後のロングマン出版社の始祖となるロングマン(Thomas Longman)、 遺言執行者キャデル(Thomas Cadell)によって訴訟は継続された [47]。 ミラー事件の検討に戻る。王座裁判所に訴状が提出されたのは、1766年のことであり、 最初の審理は1767年6月30日に行われた。この時の原告側弁護士はダニング (John Dunning)、被告側弁護士はサーローである。 サーロー弁護士は 1760年のトンソン事件での被告側弁護士である。 第一審理では判決は出されず、第二審理が開かれることが決定された。 第二審理は1768年6月7日に行われた。この時の原告側弁護士はブラックストン、 被告側弁護士はマーフィー(Arthur Murphy)だった。 ブラックストンは1761年トンソン事件での原告側弁護士である。 ここから明らかになるのは、 このミラー事件がトンソン事件の再現であるということである。 したがって、原告・被告の両者から主張された内容は、これまでのコモン・ロー・ コピーライトをめぐる議論とほとんど同一だったと報告されている [48]。 原告側の主張を要約すると次のようになる。
作品の公表の後にも、著作者には、その作品について真正の財産権が存在し、 その作品の複製についての排他的独占権をもっている。この著作者の権利はコモン・ ロー上の権利であって、この権利は1709年制定法によって与えられたものではない。 したがって、1709年制定法の保護期間の満了の後にも存在しているのである。対する被告側の主張は次のようにまとめられる。
著作者が保有するコモン・ロー上の権利などは存在せず、作品が公表されれば、 著作者の排他的独占も消滅する。また、そのような権利が存在するとしても、 これまで主張されてきたコモン・ロー上の権利は著作者に与えられたことはなく、 いずれも出版業者によって行使されてきたのであり、コモン・ ロー上の権利は著作者には存在していない。ミラー事件の記録は極めて長大で、 English Reportsから選び出した全判例の頁数の半分を占めるほどの量である。 全体の構成は(1)個別陪審票決で確定した事実内容、(2) 歴史的観点から原告側を擁護するウィレス(Edward Willes)裁判官の意見、(3) 所有権理論から原告側を擁護するアストン(Richard Aston)裁判官の意見、(4) 公表後の知識を著作者が事実上占有できないことを根拠に被告側を擁護するイェーツ 裁判官の意見、(5) 主として歴史的観点から原告側の主張に反論する被告側弁護士マーフィーの主張、(6) 原告側の主張を全面的に受け入れる首席裁判官マンスフィールド卿の判示、 というように配列されている [49]。
25.1 ウィレス裁判官の意見ウィレス裁判官は、二つの論点を示す。[I]書籍の版、あるいは文字的作品がコモン・ ローによって著作者に帰属するか、[II]著作者が自己の作品について保有するコモン・ ロー上の権利は1709年制定法によって剥奪されているか、というものである。彼はこの問題設定の後、16世紀からの出版関係の法律・制度を概観しながら、 次のように主張する。
また、1667年アトキンス事件以来の判例を概観しながら次のように主張する。
25.2 アストン裁判官の意見つづいて、アストン裁判官は三つの論点を示す。[I] 著作者が自己の作品を複製する排他的権利をコモン・ロー上において保有するか。 [II]著作者が自己の作品について財産権をもつとすれば、彼の意思に反し (さらに陪審の票決に反し) てその権利は公表によって法律の暗示するところ従い放棄されるのか。[III] その著作者からの権利の剥奪あるいは制限は1709年制定法によるものか。アストン裁判官の法律観は寛大な自由法論といえるようなもので、「理性(reason) と自然(nature)と倫理(moral)が示す正義がコモン・ローである」 というふうにまとめても差し支えないだろう。
アストン裁判官は、トンソン事件などで主張された所有権論と異なり、 労働に基礎をおくロック流の理論だけでなく、『ユスティーニアーヌス法学提要』 やプーフェンドルフなどのローマ法系の理論も積極的に援用して所有権論を展開した。 これまでローマ法系の所有権論は、 コピーライトを永久の財産権として認めたくない側の理論に援用されてきたのである。 アストン裁判官は、 無体の観念に所有権をもたらす理論をローマ法からも引き出せることを示したのであ る。
25.3 イェーツ裁判官の意見つづいて弁論したイェーツ裁判官は、 1761年トンソン事件では被告側弁護士だった人物である。奇妙なことに、 彼は弁論の冒頭から敗北宣言をしてしまうのである。彼は 「不幸にも前二者の裁判官に同意しなかったときには、 自己の意見に非常な自信があったのであるが、 いま述べられた前二者の裁判官の優れて学識高く、才能ある議論を聞いた後では、 これから自分が行う弁論がひどく困難な仕事に思われてならない」 「自分の意見のために、この法廷において孤立するとしても、 自分の意見がこの法廷における判決の権威に何の影響も与えるものではない」 [51] と前置きして弁論を始めた。 弁論は約3時間にわたったとされている。しかし、 記録では20行ほどに要約されてしまっている。彼が述べた内容は次の通り。
しかしながら、原告側の幻惑によって問題が「著作者 対 海賊出版業者」 の闘いにすりかえられ、著作者が保有するコモン・ロー上の財産権さえ証明できれば、 それは当然に永久の権利であり、 また当然に譲渡の後はその譲受人の財産権として保護されるべきであるという枠組み が暗黙に設定されてしまっている。ブラックストンが明確に区別していたように、 出版に関する権利としては、「コピーライト」と「著作者の権利」 が重層的に存在するのであり、 裁判で争われてきたのはコピーライトの内容についてだった。ところが、 裁判ではコピーライトと著作者の権利とが意識的に結合され、 コピーライトが歴史的に存在していたことをもって、 著作者の権利の歴史的存在を主張し、著作者の権利が永久であることをもって、 コピーライトを永久の権利にしようと主張されているのである。
25.4 マーフィー弁護士の主張以上の裁判官による意見陳述の後、 被告側弁護士マーフィーからの反対弁論が行われている。はじめに彼は理論的な検討を行う。冒頭、彼は 「著作者が自己の作品について永久のコピーライトを主張することは財産権の一般原 則の観点から同意できる」と「著作者の権利」を全面的に認めている。しかし、 財産権の性質は観念的な私的占有の理論からではなく、 財産権の客体の性質から導かれるとし、次のような前提を立てる。[I] 全ての財産権の客体には時間的限界と内容的限界が存在する。[II] その財産権の客体の存続期間をこえて財産権は存続しない。[III] その財産権の客体の限界をこえて財産権は主張しえない。 そして、次のように主張する。 著作者が手元に置いている手稿については疑い無く財産権が存在する。しかし、
また、訴訟手続上の観点から次のように主張する。
そして最後にマーフィー弁護士は、 仮に永久のコピーライトが認められた場合の弊害について次のように主張する。
25.5 判決さて、以上の原告・被告側の主張を聞いたマンスフィールド卿は、 ほぼ全面的に原告側の主張を支持して、原告側勝訴の判決を下すのである。マンスフィールド卿が示す判決理由をみると、 彼が積極的に原告有利に解釈を試みている様子がうかがわれる。例えば、 1761年トンソン事件が初めて王座裁判所で審理されたことと、その後、 慣合裁判が発覚したことを結び付け、つぎのように述べる。 「トンソン事件は大法官府で疑わしき点が存在したが故に王座裁判所で審理されたの である。したがって逆に、 王座裁判所に送られなかった他の事件については差止命令が正当な権利に基づいて発 給されていたことが示される」[52]。 彼は、トンソン事件でも首席裁判官だったから、 トンソン事件の展開について知らないはずがない。 トンソン事件での不正が発覚したのは、 王座裁判所での審理後の財務府会議室裁判所への通報(information)によってである。 仮に大法官府で、慣合裁判の疑いがあったならば、 「大法官府に来るものは汚れていない手で来なければならない」の法諺どおり、 棄却したと思われる。 また王座裁判所の審理でも慣合裁判をうかがわせるような発言は見られない。 マンスフィールド卿はどのような意図で、 不正なトンソン事件を引き合いにだしたのだろうか。 また、マンスフィールド卿は、判決理由末尾で、 トンソン事件の審理において著作者のコモン・ロー上の権利を認める意思が固まった [53]、と述べている。 この言葉の通り、 ミラー事件はトンソン事件のやりなおし裁判としての性格が強いと結論することがで きるだろう。 このミラー事件は著作者の権利がコモン・ロー上で認められた最初の事件として、 コピーライト史の転機を示す重要な事件であるとされている。 この事件がコピーライト史、 著作権史に与えた大きな前進については高く評価されてしかるべきだと思うが、 これほど重要な権利の主張が、 著作者ではなくロンドンの独占的大手出版業者によって主張され、 背景の怪しい裁判によって確定されたことに注意する必要がある。 また、コピーライトとして理解されてきた排他的独占権が永久のものであると、 原告が主張するにあたって、コモン・ロー上の著作者の財産権を援用したために、 原告側勝訴という結果は「著作者の権利」と「コピーライト」 は同一の権利であるという理解をもたらすことになった。すなわち、 排他的独占権は著作者がコモン・ ロー上で認められた財産権に基づくものであるという理解である。コモン・ ロー上の権利は自然権に由来すると主張されたために、 結果的に自然権に基礎をおく著作者の財産権に由来して、 排他的独占権が与えられるという解釈を導くことになる。 しかし、このような汚れた法の泉から汲みあげられた判決は長くは続かなかった。 (つづく) Note
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白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: hideaki@higashi.hit-u.ac. |