消費者という断絶

*消費者という断絶*

白田 秀彰

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また「デジタル・ミレニアムの到来」を読んでいて思ったこと。

同書は、第8章「情報倫理」において、直線的発展および無制約性を特徴とする技術者と、保守的安定性および規範拘束を特徴とする法律家を対立的に説明し、次のように結論する。

    技術と法律は評価の尺度が離れてしまい、その結果、技術の作りあげる現実に対して、「法の欠缺」が生じる。つまり、技術と法律とに調和を求めることは、どだい無理、ということである。

(「デジタル・ミレニアムの到来」丸善ライブラリ p. 181)

また、ロードンの説に従い倫理の型を次の四つに分類する。すなわち、義務論、宗教的信条、功利主義、自由主義である。そして、研究者の理念として義務論が、企業人の理念として自由主義が、消費者の態度としてそれら四つに分散しつつも功利主義が対応すると整理されている。そして、インターネット初期においては、研究者や企業人がコントロールをしていたため一定の価値観が存在したが、現在のように価値観の分裂した消費者が参入してくると、普遍的価値観が消滅してしまったと主張される。

    つまり、ネットワーク社会のなかにおいては普遍的な慣行や条理を求めることは難しくなってしまった。

(「デジタル・ミレニアムの到来」丸善ライブラリ p. 183)

    つまり、研究者、企業人、消費者はそれぞれ別の関心をもち、あるいは協力しあい、あるいは反発しあう。とにかく、インターネット環境のもとで、普遍的な価値観を求める事は不可能に近い。これを認識すべきだろう。

(「デジタル・ミレニアムの到来」丸善ライブラリ p. 186-7)

このため、消費者が具体的な事例に対応するためには、自己責任下における自己決定をする必要があることになる。しかし、素人である消費者は、自己責任および自己決定に耐える知識・能力に欠けているため、専門家に次の三つの責任が生じるという。消費者に対する注意義務、忠実義務、そして説明義務である。

専門家が負担すべき三つの義務という名和先生の結論には賛成である。というよりも、専門家に限らずあらゆる人間が、その立場においてこの三つの義務を履行することが望ましいと思う。ただ、先生が「調和を求めることは、どだい無理」、「普遍的な慣行や条理を求めることは難し[い]」、「普遍的な価値観を求めることは不可能に近い」とネットワークにおける断絶 (discommunication) を強調されているのは残念だ。

先生の議論では、かつてのインターネットには一つの共通意識が存在し(インターネット原理主義)、これが有効であったが、現在は上記の参加者間の断絶が原因で、無秩序状態にあると主張されているものと理解した。同書では、この現在の無秩序を克服する方策について具体的に提示されていないが、インターネットへの新参入者を「消費者」であると置くことで、一定の方策が暗示されているように私は読んだ。すなわち「消費者保護」である。

1995年のインターネットの商用化とともに、インターネットの利用者層が変化した。こうして商用化したインターネットには、消費者が参入してきたのだから、それまでのインターネットの自律的秩序はもはや維持できない。したがって、国家あるいは超国家組織が秩序維持に当たり、消費者を保護しなければならない、という種類の議論は同書にかぎらすあちこちで見られる。

そこで、この小論では「消費者」という存在の問題点を示し、これがネットワークにおいて克服されるべきことを一般的に述べたいと思う。

消費者は文字どおりみれば、貨幣と交換に財を購入し消費する主体である。この消費者という人々は、産業革命以後に誕生した。彼らは、社会的な位置づけや労働体系での位置づけを捨象された、大量生産される消費財の受け入れ先である顔無き人々である。彼らは、常に素人で善良であることを属性とし、その行動は、購買力すなわち貨幣を行使するかぎり善である。したがって、消費者は貨幣の行使を中心属性とする。

さて、貨幣とはなんだろうか?

ごく基本的な経済学の講義で次のような話が出てくる。AさんはステレオをBさんはパソコンを持っている。しかし、Bさんは、ステレオにより高い価値を見出し、Aさんはパソコンにより高い価値を見出している。この二人が市場で出会い、交渉すれば、AさんとBさんの財の交換が行われ、それぞれの満足すなわち効用が増大すると。

ところが、Aさん、Bさんにもう一人Cさんが登場すると、話が複雑になる。AさんがBさんのものを欲しがり、BさんがCさんのものを欲しがり、CさんがAさんのものを欲しがるとすると、この三人が市場で同時に交換交渉をしないがきり、交換が行われない。もっとたくさんの人間が市場に参加するようになると、好都合な偶然の可能性は著しく低くなる。

そこで、貨幣が導入されるとどうなるか。Aさん、Bさん、Cさんはそれぞれ自分が保有している財および欲している財を貨幣で評価し、貨幣の交換を仲立ちとすることで、三人が同時に一つの場所で出会わなくても、財の交換が可能になるのである。これが市場における貨幣の機能であると説明される(もし、間違いがあれば指摘していただきたい)。すると貨幣とは、ある財の余剰や欠乏を市場に示すメッセージであることになる。しかも、そのメッセージは財の交換を目的とした単一尺度となっている。情報量が著しく少ない、冷たいメッセージである。

かつて、バザールで取引するとき、人々は丁々発止の駆け引きを行った。売り手、買い手に応じて価格が変動するのは当然であった。人々は物を売り買いするときにも、相手の顔を見つめ、冗談や軽口を交わし、相手の経済状況を慮り取引をしていたのである。貨幣による尺度も重要であったが、それ以外のメッセージも重要視されていたわけである。これを熱いメッセージと呼ぼう。

近年、人間関係の断絶、社会における人間疎外が問題となっている。人間関係が希薄で社会のと接点を失いつつあるという時代の原因の一つに、貨幣尺度の支配が行過ぎていることがあるように私は思う。

物を買うとき、代金を受け取るとき、私たちは無言あるいは機械的な決まり文句で貨幣を渡す。「金さえもらえば、誰にでも何だって売る」「金さえ出せば何をやってもいいんだ」という市場は、冷たい闇に包まれている。貨幣を介して人間関係が作られる中、貨幣さえあれば他者がどのような「心」を持っていようと関係ない。「金を払えばいいんだろ」という冷たいメッセージの交換を最重要視する社会は、断絶の社会である。そして、私たちは、「何がほしい?」という問いに「お金」と答え、「君の夢は?」という問いに「お金持ち」と答える子供たちの存在を当たり前のように聞き流す。

消費者という存在が貨幣を中心属性とするならば、消費者には顔が無いのは当然だ。消費者には、自らの経済的効用の最大化と損失の可能性の最小化以外の関心事はない。消費社会は避けようがなく断絶 (discommunication) の社会である。この社会は、私たちの物的豊かさを増大させたが、数々の社会的歪みを生み出していることをここで繰り返すまでもないだろう。

さて、この断絶を克服するためには、いかにすべきか?断絶 (discommunicaton) は、交流 (communication) で克服するしかない。しかし、私たちの間には、国家、人種、宗教、社会的地位、職業、性別、年齢など様々な亀裂がある。人類は貨幣の導入以前から、こうした様々な亀裂から生み出される断絶によって、憎しみあい殺しあってきたのである。そして貨幣の導入は、経済的効率と引き換えに、こうした傾向を助長してきた。だから合意と調和の困難さは、近年のインターネットに特徴的に現れているのではなく、現実世界においてもっとも深刻な状況にあるのである。

むしろネットワークは、現実世界における亀裂を乗り越える可能性のあるコミュニケーション・ツールとして期待されてきたし、現在も期待されている。少し前迄は、パソコン通信が、先に掲げたさまざまな社会の亀裂を乗り越えて交流を活発化する効果が喧伝されていた。国境を越えたメッセージ交流が容易になった、というのもコンピュータ・ネットワークのおかげだ。ネットワークのせいで文化間紛争が増えたと指摘する向きがあるかもしれないが、お互いに交流もせず仮想敵国だと思い込んでいるよりはずいぶんマシだろう。

また、ネットワークはバザール的市場の機能を復活した。これまでの物言わぬ「消費者」はネット上で積極的に情報を交換し、財に人間的な熱いメッセージを附加するようになった。この様子は、フリーソフトウェア運動に顕著に見られるし、金子郁容編『シェア・ウェア --- もう一つの経済システム』(NTT出版)などによくまとめられている。

ずいぶん以前に、アルビン・トフラーは、ネットワーク時代における新しい消費者像をプロシューマ (prosumer) と名づけた。生産に積極的に関与する消費財の受け手のことである。この具体例としては、パソコンやソフトウェアの熱烈なユーザーズ・グループの活動に見ることができる。彼らは、工夫し、提案し、出版し、そしてメーカーとも交渉するのである。消費者と熱いメッセージの交換をしない企業は、今後生き残っていけるだろうか?

インターネットの一般化に伴い、消費者が支配的構成層となるシナリオは、多くの論考で見られる。それは、現実世界における消費者が抱える断絶を、ネットワークに持ち込むものとして説明される。こうした断絶を補う方法として、家父長的後見政策や禁止的規制の強化が持ち出されることが多い。しかし、それは克服すべき「消費者という断絶」のモデルに拘泥したシナリオである。札束を振り回して、ツバメのヒナのように口を開けているだけの「消費者」を力で保護するよりも、ネットワーク利用者が市場参加者としての能力を高められるように、支援することが積極的な政府の役割であろう。金融における「情報公開 disclosure」の制度化がその一つの事例である。

コンピュータ・ネットワークを広めてきた技術者たちも企業人も、コミュニケーションの増大がもたらす相互理解の広まりを目標の一つとしてきたものと、私は信じる。そして、生産者と消費者、そして消費者相互のコミュニケーションが、市場において不利な立場にある消費者を生産者と対等なものにしていくだろう。実際、消費財市場における「市場の失敗」の一原因は、消費者の側に商品に関する十分な情報が欠けているという「情報の不均衡」によって説明されている。

ここで「消費者保護」の問題に限らず、秩序維持の問題にも「断絶」の克服を展開してみよう。

ネットワークの情報伝送能力は、ますます増大しつつある。「調和を求めることは、どだい無理」、「普遍的な慣行や条理を求めることは難し[い]」、「普遍的な価値観を求めることは不可能に近い」と諦めるよりも、私は希望をつなぎたい。コンピュータ・ネットワークが世界を一つに結んでいく中で、共存可能な多様な価値が、一つの普遍的価値を緩やかに形成する時代を夢みたい。インターネットの30年間は、こうした夢の片鱗を私たちに見せてくれたのではなかったか?そして、希望の萌芽はあちこちにみることができる。

私たちは、連帯し、語り合わなければならない。他者を拒絶することを戒め、お互いの考え方を理解するよう努力しなければならない。失われた共同体を復活し、より大きな地球共同体として再構成する可能性は、ここにしかないだろう。これが「情報の自由 free flow of information」の目的だと私は考える。おお、そうだ。同じことをハーバーマスも言ってたと聞いたことがある。そして、あの古き良きハッカーたちも。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 助教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
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