1 冒頭にくる補遺普通、補遺というのは論文の末尾に置かれるもの。でも、 本編の議論でもっとも解釈がゆれた点について整理しておかないと、 本編を読む人の時間を浪費することになると考えたので、冒頭に置くことにしました。
1.1 物語・非物語・メタ物語...本編で私は、次世代の大きな物語として「ハッカー倫理」が有望ですよ、 と主張している。これに対するほとんど全員からの批判は、 「ハッカー倫理は物語を超越したものだ」と「ハッカー倫理は大きな非物語だ」 というものだった。確かにハッカーはコードを疑い、 コードを書き換える人たちだから、固定した「コード」を「物語」 に置き直せばハッカーは物語を超越すべきだろうし、ハッカー倫理は、 物語を外から観察する態度であるべきことになる。うーん...そのとおり。そこで、ここでは、 『動物化するポストモダン』の著者である 東 氏 に敬意を表して、 彼から頂いたコメントを中心に、「物語」という用語を整理しようと思う。まず、 東 氏の考える「大きな物語」の定義。
僕が考える「大きな物語」とは、シンボル(象徴) で多様な社会をまとめあげるシステムのことです。国民国家体制であれば「血」や 「大地」のフィクション、 20世紀であれば共産主義のイデオロギーや星条旗のシンボルがそれに当たります。東 氏の「大きな物語」はシステムのことだ。でも、(a) どのようなシンボルが用いられるかにかかわらず、 シンボルを統合の結節点として用いる手法そのものが「大きな物語」 であるとも読めるし、(b)なにか特定のシンボルを含んだシステムのことを指して 「大きな物語」であるとも読める。本編の私の論述もこのあたりにブレがある。 ここで(a)と(b)を切り分けるために(a)を置き換えさせてもらうと、(a)は、 物語の枠組であるゆえに「メタ物語」と言うほうがわかりやすいかもしれない。 そこで、本編の論述において(a) に当たるものについては「大きな(メタ)物語」 と改めさせてもらった。 もう一個所、東 氏は次のように述べている。
...今後の社会デザインについて真剣に考える場合、何らかの「ハッカー的」 精神が必要なことは言うまでもない。そういう意味では、ハッカー倫理は、むしろ 「大きな非物語」に関係しているというべきです。なるほどハッカー倫理は、物語を疑い組み直すという意味で「非(あるいは反)物語」 であるというのはわかりやすい。で、 そういう態度すなわち枠組みであるとすればハッカー倫理は「大きな非物語」である、 と。うーん。説得的。付け加えれば、S.N. 氏およびM君がいずれもXMLデータベースの構造をハッカー的存在として例に挙げたこ ともとても興味深い。
私はXMLデータベースをイメージしました。で、 一度XMLデータベースを想像してしまうと、ですね、 XMLだとスキーマもXMLスキーマとかRelaxだとかいってXMLで記述しちゃうし、 検索言語もXPathとかXMLQueryってことでXMLだし、 さらには表示の変換ロジックもXSLTってことで、XMLだということで、 全部XMLで完結しちゃうと。 つまりそういったもろもろをやはり同じようなデータベースに格納できる、 ということですね。通常のリレーショナル・データベース がスキーマ(構造) を決定した上で構築されるのに対して、XMLデータベースは、 どんなデータを適当に入れておいても柔軟な検索をかけることができる。ゆえに、 それは、おそらくポストモダン的なデータベースである、と言えるのかもしれない。 私はXMLについて大まかなイメージしか持たないので、 誤解しているかもしれないけど。[* この部分の私のまとめに対する S.N. 氏からのコメント] とはいえ、一つ疑問が生じる。ハッカーは、 それこそポストモダン的に自らの心の赴くまま無定見にコードを組み直してしまうの か、という疑問だ。そこには一定の美学なり指導原理なりがないのだろうか? GNUや OpenSource の活動の中心にはシンボルが存在していないのだろうか? 私にはそれがあるように思える。その指導原理なりシンボルは、 血とか大地のようなベタなものではなく、 もう少し抽象度の高いシンボルのように思える。 あまり使うとメタメタになってしまうので、嫌なんだけど、メタ・ シンボルのようなものが存在するんじゃないだろうか。それが「ハッカー魂(Ethos)」 の核になってるんじゃないかと考える。私は、それは発見されうるし、 言語化されうるし、そのメタ・ シンボルが次世代の指導原理になりうると期待しているわけ。 で、私はそうしたメタ・シンボルがハッカー倫理の核に存在すると考えるゆえに、 それは単純に非(あるいは反)物語とは言えないと主張したい。 本編の論述でもわかると思うけど、 私は 共通認識と指導原理のない世界がとても恐ろしい。ゆえに、 ハッカー倫理について「非物語」という用語を使わないことにする。 すると本編での私の「大きな物語」という用語の用法は、 まあまあオッケーということになる。で、私が「大きな物語」というとき、 上記のような趣旨で用いていることを理解した上で本編を読み進めてほしい。
2 はじめにたしか2002年の1月末くらいのことだったと思う。Y.S. 氏から「東京に行く」 との連絡をうけた。そこで彼と吉祥寺で待ち合わせて、 コーヒーを飲みながら雑談した。話題は、 レヴィの新著『暗号化 (Crypto)』の話や、 レッシグの新著『The Future of Ideas』の話、 大学での仕事の話などから始まって、 いつのまにか「萌え」という概念に関する質疑応答にうつった。私は、 世代的にオタク第一世代(小学生高学年から中学生時代に「機動戦士ガンダム」 にハマった世代) に属するのだが、ガンダム以降の様子については、 友人たちから聞きかじる程度で、「萌え」という用語について知ってはいたが、 それがいかなる概念であるかについては、多分に先入観を含んだ誤解を持っていた。 (ちなみに私は、ゲーマーとしては「ギャラクシアン」で終わってしまった、 といえば、わかる人には私のレベルがわかっていただけるだろう。) 「萌え」によって駆動されるアニメ・ ゲーム業界における産業構造と利用者の行動についてのレクチャーを受けながら、 著作権概念の変容についての議論を進めたのだが、最後にY.S.氏から「白田さん、 東 浩紀の『動物化するポストモダン』をぜひ読むべきですよ」と薦められた。 私の予備校時代から大学教養部時代頃に、 いわゆるニュー・ アカデミズム が流行していた。当時私も『 現代思想』っぽい文章をかじってみたが、 正直いってよくわからなかった。わかったようにも思うのだが、 多分わかってなかったのだろう。とくに現代思想系の文体が受けいれられなかった。 まあ、法律論文の時代がかった文体も悪文の代表例らしいので、 どっちかに慣れろといわれるなら、法学部にいたせいもあって、 法律論文の文体に慣れるのが当然だったと思う。 そういうわけで、Y.S. 氏の推薦を受けながらも、『動物化するポストモダン』 は後回しにされた。(そのくせして、『暗号化』も『The Future of Ideas』 もまだ読んでないんだけど。) 2001年の夏休みに 『グリゴリの捕縛』 という憲法論とハッカー倫理を結ぼうというある意味トンデモな論文を書いた後、 なんとなく考えつづけていたことがあった。法は、 その法に従う人々の間に共通理解というか共通認識を必要とする。 この共通認識が法の解釈において指導原理となるわけだ。ところが、 この共通認識それ自体が日本において希薄化あるいは消滅しているのではないか、 という懸念だ。この共通認識は、法の指導原理というだけでなく、 法の根本たる憲法の内容を導くという意味では、国家の基礎にもなる。後述するが、 この共通認識が存在しなければ、法は法たりえず、国家は国家たりえず (「別に、 法や国家なんていらーんもんね」という人はほっといて)、 教育の意味それすらも危うくなってしまう。 いま日本の大学がヤヴァイ状態に入りつつあるのも、私からすれば、 これが原因だと思う。 西洋法においては、キリスト教がその共通認識を担保してきた。だから、 西洋法の理解にはキリスト教の教義の理解(私の場合は生噛り) が不可欠だということは、これまでの研究生活でよくわかっていた。日本においては、 明治維新から第二次世界大戦の敗戦まで、「天皇教」 としか言いようのない宗教が国家の共通認識として通有されていた。 その評価はさておき、共通認識がしっかりと存在していたわけで、その意味では、 戦前の日本は「気合いの入った」国家だった。問題はその後だ。 戦後は、「(アメリカに)追いつき追い越せ教」という経済至上主義の宗教と、 「マルクス・レーニン系社会主義教」という左翼思想としてまとめられる宗教が、 並列し対立しながら共通認識を担保していたんだろうと思う。前者は、 追いつくべき目標に到達した途端に瓦解し、いまや『プロジェクトX』 なる聖人列伝がテレビ放映されるという衰退段階に入った。後者は、 総本山が瓦解したあと、教典の読み替えで生き残りを探るという『第三の道』 路線に入っているようだ。 ところがオタク第一世代の私やその第三世代にいたる現在の大学生たちは、 それらの衰退期にはいった宗教をシラケた気持ちで眺めている、いや、 シラケているのはおそらく第一世代までで、第二、第三世代のオタクたちは、 そういう宗教自体に関心をもっていない。 彼らは小さく閉じた世界に分裂して住んでいる。 私が大学生と接しながら彼らを観察して得た印象はそういうものだった。彼らには、 徹底して「公共性」が欠けている。ここでいう「公共性」とは、 自己を客体化した上で自己の問題として、地域社会、国家、 人類といった大きな視点から世界を把握する能力のことを指すことにする。 そうした傾向が顕著に現われているのが、現在のネットワークの状況だ。朝日新聞の 「ねっとアゴラ」に私が投稿した短いエッセイは、 この共通認識の分裂を懸念する内容だった。 情報法とかサイバー法といったような曖昧な名前で学問することになっている私は、 職業上の問題意識もあって、 ネットワーク上でこの共通認識を形成する可能性はないものか、 と考えたりもしていた。 そこで、この共通認識をどうやって生み出すか、という検討を『グリゴリの捕縛』 を読んだ上で、関心を持ってくれた学生諸君と始めようとしている。 その立ち上げとして何回かミーティングを続けていた。あるミーティングにおいて、 酒が入り、議論がたんなるヨタ話に脱線していったとき、 ヨタ話に参加していたあるOBのH.T.君から、やはり「先生、 『動物化するポストモダン』を読むべきですよ」と推薦された。
「『動物化するポストモダン』。これ最強。」「それなら読まねば」と読んでみた。私の漠然とした懸念がスッキリと整理された。 最強だった。ここまで褒めてるんだから、この文章のこれから先を読む人は、絶対に 『動物化するポストモダン』を読んだ上で読まなければならない。で、 「この程度の本で『最強。』とかいう白田はドキュソ決定」と思った人は、 以下の文章を読むと時間の無駄なので、読まない方がいい。確かに、 思想方面については私はドキュソです [1]。 しかし、これから本格化する「知的財産戦略会議」関連の先生方は、 必ず『動物化するポストモダン』を読んだ上で、 21世紀の知的財産権について考えてほしい。そうでなければ、先生方が考えている、 アニメやゲームを中心とするエンタテイメント立国 (私自身は、 そういう国は嫌だなあ、と思うわけですが)の息の根を止めてしまうことになる。
3 動物化するポストモダンさて、この章を読んでる人は、もう『動物化するポストモダン』を読んでるはず。 この本を読んで「ううむ、これはいけません! なんとかせねば日本はダメ国家になってしまいます!!」と思った人は、 モダンな人かオタク第一世代。で、「なんとかせねば」というときに、 「陛下 [2]」とか「そびえたつビル」 とか「党」とかが浮かんだ人はモダンな人。 思わずギレン様 の演説風景が浮かんでしまった人(私だけかも)は、第一世代。「で、 なにが悪いわけ?」と思った人は、第二、第三世代。「マルチ萌え〜」 と思っただけの人は、ダメ人間。 この本の要点を私なりにまとめてしまうと、 一つの崩壊から生じた二つの反応に整理できる。「一つの崩壊」とは、 p.42あたりから始まる「大きな物語の凋落」を指す。 「二つの反応」の一つめは、「物語消費」において「ツリー・モデル」から 「データベース・モデル」へと展開する際に生じる「創作」の意味の変容だ。これは、 アニメやゲームだけの変容ではなく、 サンプリング技術を利用して大量生産される音楽や、 大量に生産され大量に消費される「少年少女向けお手軽小説群」 等にもまったく同じように生じている現象だ。またこれは、「著作者の存在」 という神話を基礎に作られた近代的著作権制度を脅かす存在といえる。 この「データベース・モデル物語消費」 の一般化を法制度によって押し止めようとすることは、すなわち、日本型アニメ・ ゲーム文化を法によって既存の産業秩序に押し込めようとすることを意味する。 するとおそらく、それら文化は窒息死してしまうだろう。とはいえ、アニメ・ ゲーム文化を産業化するためには、 知的財産権制度で人々の欲望を金銭価値に変換しなければならないから、 知的財産権制度の存在は必須だ。この矛盾する方針を調和させる方法について、 学生の F君と議論してみたが、方法は一つしかないようだ。答えを知りたい? それなら、秋葉原をウロウロしている大学生ぐらいの男の子に聞いてみるのが一番だ。 すくなくとも40歳以上の世代の人が100 万年議論しても、 答えが見つからないことは断言できる。 「二つの反応」の二つめは、失われた「大きな物語」を補償しようとして生じた 「物語の捏造の世代」とそれに続く「物語すら必要としない世代」すなわち 「キャラ萌え世代」の登場だ。 「物語の捏造の世代」は、正統(「権威ある」ということになっている)文化たる 「大きな物語」に対して懐疑的・批判的かシラケている。懐疑的・批判的な人は、 オルタナティヴ・カルチャーとして、まだ自分の信じる「物語」 を正統文化的地位に位置付けようと考える点において、 まだ正統文化の桎梏を脱していない。シラケている人が、オタク第一世代の核(コア) を形成している。このあたりまでの世代であれば、まだ「法・国家・教育」 に対して致命的な影響を与えない。ところが、「物語すら必要としない世代」は「法・ 国家・教育」 に対して致命的な影響を与える [3]。 その理由については、次の章で詳しく検討したいと思う。
4 法・国家・教育法と国家と教育は、三位一体の存在だ。法が国家の形態を規定するのが近代国家。 逆に、国家は立法活動を通じて、法のあり方を制御しうる。 法が現実に機能するためには、法を正統なものと認識する共通認識が必要だ。 近代の場合は「国民国家」という観念が共通認識として用いられた。 この国民国家観念は、 実は国家あるいはごく初期に革命等を指導した思想家によって設定され、 教育によって維持・発展・強化されてきたものだ。もちろん、 思想家の提案がある程度の説得力をもって受け入れられるためには、 その観念の背景にはきちんとした裏付けが必要なことはいうまでもない。 この裏付けとしては、歴史、伝統文化、宗教、哲学、科学思想などなどが用いられた。 そういう意味で、それらの人文科学は一見無価値にみえながら、 重要な役割を担ってきたわけだ。 国民国家勃興期に国民文学や国民音楽とよばれるような芸術様式が主流となったのは 当然だ。 日本においても、明治期から第二次世界大戦敗戦まで、 江戸時代までの日本の伝統とは系統を異にする、欧州風芸術を日本的に昇華(消化) しようとした芸術運動が多数見られた。 江戸時代までは省みられることもなかった日本神話が歴史として教育された。 江戸時代までの神道は廃され、 天皇を中心とした神話体系をもった国家神道が再設置された。 こうして国家的キャンペーンとして「大きな物語」を作り上げたわけだ。 逆にこうした国民意識を形成する文化運動の結果として「日本国」 の観念枠が定まった。そうしてはじめて法は、 書かれた文章以上の機能を果たすことが可能になる。こうして、 国家が必要とする文化と、文化が生み出す国家意識が相互に高めあうことで、 国民国家は維持しえたわけだ。ところが、 それがあまりにうまく行過ぎて暴走したのが昭和日本だったんだろうと思う。 高等教育機関である大学、とくに近代的大学は、 こうした近代国家 / 国民国家のために 国家観念 / 国民文化を維持・発展・ 強化する機関として国家に位置付けられて、その役割を果たしてきた。 このあたりの話については、法政大学出版会から出版されてる ビル・ レディングズ著『廃虚のなかの大学』(成城大学の青木先生ありがとうございます) を読んだくらいの知識しか私はもたないが、この本を読めば、そのあたりの背景と、 現在の大学が直面している問題がよく理解できる。 ところが、伝統を理性において再統合して作られたヨーロッパ諸国の「大きな物語」 は第一次世界大戦で凋落した(らしい)。なるほど、 ヨーロッパ諸国の凋落と歩調をあわせて日本のナショナリズムは奇形的に発達したよ うに思われる。ドイツでナチズムが現われたのは、まさに捏造された「大きな物語」 としてである。たしか、 イタリアのファシズムも古代ローマ帝国の復活という捏造された「大きな物語」 を基礎にしていたと思う。ロシアでは、マルクス・レーニン主義という「大きな物語」 が新形態の国家を創り出した。 第二次世界大戦で日独伊の物語は終わり、残ったのは、 産業主義と社会主義という二つの物語だけ。戦後の日本は、 まさにその二つの物語の相克を歩んできたわけだ。ところが1989年に社会主義という 「大きな物語」が瓦解。残っているのはアメリカ型産業主義だけ、 ということになった。( ここに、これまで注目されてこなかった「大きな物語」 としてイスラムが出てきたりしてるんだけど、 この話に深入りすると終わらなくなるので割愛。) こうして「大きな物語」なき時代をわれわれは歩んでいるのだけど、まだ 「大きな物語」があると思っている人たちも多い。このあたりについては、 『動物化するポストモダン』p.95 以降あたりに書かれている 「ヘーゲル的歴史の終わり」と「シニシズム」について読んでもらいたい。 無くなったものを「ある」 ものとして 20世紀の後半をわれわれは過ごしてきたわけだ。 戦後の大学がおかれた位置は、 まさにこのシニシズムと産業主義と社会主義の組みあわせであるといっていい。 かつて存在していたヨーロッパ的な「大きな物語」 の残滓を博物館の剥製のように展示しつづけるか、 アメリカ型の産業主義に追従するか、社会主義を新しい「大きな物語」 として普及させるよう努力するか、 の三つの行きかたのいずれかを選択せざる得なかったわけだ。「大きな物語」 は無くなっても、学問には自律的な方法論や価値観があるから、 粛々とその方法論で学問を進めていくこともできた。あるいは、時勢に乗って、 産業主義あるいは社会主義に与することもできた。 大学はなんとか旧来の体裁を保ってきたけど、学生の方が変わってしまった。 60年代の政治の時代のあと、「大きな物語」の空白が生じて、 この空白の時代に成長した子供であるオタク第一世代(すなわち私の世代)は、 「大きな物語」が無いことにちゃんと気がついていた。だから、 オタク的文脈にそってそれぞれ「大きな物語」を捏造した。それが「宇宙戦艦ヤマト」 だったり、「銀河鉄道999」だったり、「機動戦士ガンダム」だったりしたわけだ。 『動物化するポストモダン』でも指摘されてたけど、オウム真理教は、 思いつめたオタク第一世代の暴走だといえる。大抵のオタク第一世代は「それはそれ」 として空虚な日常を捏造した物語で埋めるくらいのいい加減さを持ち合わせていた。 しかし、オウムにハマった人たちには、その「いい加減さ」が欠けていた。 彼らが得てして真面目で高学歴な人物であったことを思い起こしてほしい。 さて、こういう学生たちがやってきた大学がどうなるか? 答えは明らかだ。 学生たちは大学を「見切ってた」。背後にあるべき「大きな物語」を欠いた学問は、 無目的 (あるいは自己目的的)で、教えている側にも、その学問が 「絶対的な真理あるいは価値を持つもの」 であると言い切るだけの自信がなかった [4]。(もちろん、 論理的に真であることを説得できる学問も山ほどあるけど。) そうであれば、 オタクたちにとって、大学で教わる、たとえば「奴隷解放の歴史」と 「機動戦士ガンダム」の「宇宙世紀年表」の価値は等しい。こうしたなかで、 University として統合された体系的な学問の府は、オタク的捏造物と等価な、 バラバラの「情報」のデパートに分解されてしまった。これが 「大学のカルチャーセンター化」である。たぶん私の誤解だろうけど、 最近聞くようになったカルチュラル・スタディーズとかいうものは、 学問が綜合と体系を失ってオタク化したことを正面から受け止めて、 開き直ったものなんじゃないかと思う [5]。 さて、オタク第一世代までは、捏造したもの(フェイク)であっても、 物語をもっていただけ、まだ良かった。というのも、次の章で説明するように、 そもそもかつての「大きな物語」自体も、 誰かがこしらえたものが権威を獲得しただけのものに過ぎなかったからだ。 だから第一世代までは、「ガンダムの世界」や「松本零士の宇宙」と同じ位置に 「現実世界」をおくことができた。第一世代までは、法や国家や教育を動かしている 「はず」の大きな物語の存在を想像することができた。 ところが、オタク第二、第三世代になると、 もはや現われてくる表層の背後に物語は必要なく、自らの「読み込み」 (自己に内在する物語を反映させる作業) を受け入れる豊富な要素を備えたデータベースが存在していれば、 それでよいという状況になる。これが、 現在の若者に対して私がモヤモヤと感じていた懸念をすっきりと説明したモデルだっ た。だから東 氏はとてもスゴいと思う。そして、これがどうも「萌え」 という感覚を理解するための基礎的な世界観のようだ。 そこには外在する物語は必要ない。 記号を通じて自らの内部の物語に向かい合う様子は、箱庭療法的でもある。 第一世代については、フェイクの一種として次世代の「大きな物語」 を刷り込むことが可能だ。あるいは、当初フェイクだと思われていた「小さな物語」 が正統性を獲得して「大きな物語」に昇格する可能性もある。そういう意味で、「法・ 国家・教育」が機能する環境を再構築しうる可能性がある。一方、 物語を必要としない世代が、はたして近代的な「法・国家・教育」 を維持しうるかといえば、できないんだろうと私は考える。もし、 それがポストモダン的な「法・国家・教育」の状況を新たに定義づけるなら、 それもまた良いのかもしれないが。それは、社会の基本構造が変わるという意味では、 一種の革命なんだろうと思う。(これが後の歴史で 「少女革命 [6]」とか名づけられたら、 もう笑うしかない。)でも、なし崩し的にすすむ革命は「崩壊」 という方が適切な気がする。 彼ら第二、第三世代たちは、物語のレベルで自己完結してしまっている。 彼ら一人一人の物語は共有されない。 ある法律を解釈する指導原理が一人一人ばらけてしまう。 共通した国家のイメージが描けない。 教育はぜんぜん萌えられないデータばかりが詰まったデータベースとして、 萌えられるデータベースと等置される。 こうした世代が 30代から40代になる20年後には、歴史と意味をもっていた「国家」 がたんなる「システム」と化し、オーウェルの『1984』 よりももっと救いのない状態になるんじゃないか、と第一世代のオジサン(私) は考えてしまう。
5 「捏造された大きな物語」の闘争ここで、私が「情報法」としてやってきたことを反省してみると、1993年に書いた 『ハッカー倫理と情報公開・プライバシー』以来、 私が一橋大学のとある研究室で体験した「ハッカー的価値観」 (ハッカー的というのは、本物のハッカーがいたわけではなく、ハッカーみたいな 「気合い」が存在していたという意味) に触れて、これを自分自身の 「捏造された大きな物語」として位置付け、現在の法制度を批判的に理解・ 再構築しようとしてきたものである、と整理できてしまう。 『動物化するポストモダン』の p.50 の図3bに示される図式でいけば、 私は学部時代の実体験やパソコン通信時代のネットワークの経験を通じて、 「ハッカー倫理」という「物語」の存在を発見し、 オタク的情熱をもってこの捏造作業に荷担していったら、どうもこの「物語」 は本物ではないか、と思うようになった。そこで、もし次世代を担う「大きな物語」 が存在しないなら、「ハッカー倫理」(この名称が嫌なら、「サイバーリテラシー」 でも、「ネットリテラシー」でもいい)が有力候補ですよ、 と説得しようとしているわけだ。なぜ、ハッカー倫理が次世代の「大きな物語」 として有利なのかについては後述するとして、ここまでのプロセスをみると、 イッてしまったオタクが、「ジオニズムを次世代の国是として採用させよう! ジーク・ ジオン!」とコミケで叫んでいるのと変わりがない。うん。そりゃあ、 「こいつはダメだ」 と思うよな普通 [7]。 で、ここからがモダンな人と第一世代の差なんだ。モダンな人は、「次世代の 『大きな物語』候補を、なにがなんでも正統な位置につけなければイカーン! 」 と力んでしまう。そのためには人生を賭けたりして、すごいことになる。で、 その過程で殉教者とか英雄とかが生まれたりして、結構そのサブ・ ストーリーが人々を感動させたりするうちに、 正統たる地位を獲得してしまったりする。こうして、 最初は社会的に異端扱いされていた「小さな物語」が「大きな物語」 に昇格を果たすことになる。 キリスト教も啓蒙も理性も社会主義もこういうプロセスで正統的地位を獲得してきた わけだ。 ところが第一世代の人はオタクであることを忘れてはならない。 オタクはフェイクをフェイクと認識したまま楽しむ。「それはそれ、これはこれ」 感覚とでもいおうか。だから、私もそうだけど「『ハッカー倫理』を次世代の 『大きな物語』として位置付けなければイカーン! (笑)」とは言いながらも、最後の 「(笑)」でそれをフェイクとして笑い飛ばしているわけだ。 現実を変革しようというような意識も無ければ、 人生を賭けようなんてことは微塵も思わない。事実、私と『グリゴリの捕縛』 に共鳴してくれた学生さんたちとのミーティングも、だいたい後半あたりで脱線して、 「少女」を宗教的・国家的元首として位置づける国家の「設定」とか、イカした 「ギレン様」によって統括される軍事国家の「設定」とか、「 機動戦艦ナデシコ」の 「設定」とか、を巡る酒の上の妄想話に花が咲いてしまったりすることになる。 ダメですなぁ。 このようなわけだから、仮に「ハッカー倫理を正統文化へ! 運動」 みたいなものが始まったりしても、 爆弾テロやったり火炎瓶投げたりするような人は絶対にでてこない。 仮にそんな学生がいまどきいたら、絶滅稀少種なので保護した方がいい。あ、 逮捕して監獄に入れる、ってことがそれか。「フヘヘヘ...」とか陰湿に笑いながら、 「信じた物語(信念)」のためにメール爆弾を送ったり、 ウィルスを作ったりするだけの根性がある学生もいないだろう。 仮にそういう物を作る根性が発生するとすれば、その原因は「恨み」か「萌え」か。 まあ、オタク世代の学生ができることは、 せいぜい時々集まって自分の好きな世界観に関する「設定」 をネタに楽しい妄想を展開するくらいのものだろう。 とはいえ、私は、モダンの貴重な貯蔵庫である大学に10年以上も暮らし、 博士論文執筆過程、およびその後の研究生活で、西洋法の背後にある「大きな(メタ) 物語」の重要性を強く認識するにいたった。また、法・国家・ 教育という近代の枠組みが壊れた社会の悲惨さについても理解しているつもりだ。 だいたい、「国家が諸悪の根源」とか本気で思ってる人は、相当な「ボウヤ」 としか言いようがない。そりゃ、リヴァイアサンという巨大な怪物なんだから、 何かするたびにシッポが弱い人民をなぎ倒したりしたこともあるだろう。でも、 リヴァイアサンがいない世界は、ホッブズが言うように「万人の万人に対する闘争」 状態だ。政府をなくして世界のみんなが明るく楽しく幸せに暮らせるワケがないだろ。 そんな世界でケンシロウのように生き抜いていくのが好きか?好きなのか? 小一時間ほど問い詰めたくなる。人間を甘く見るのもいい加減にしてほしい。 そのくせして、「みんなが明るく楽しく幸せに」 暮らす世界の実現のために税金をダセー! とかいってるのはもう見てらんない。 だれが税金を集めて社会を維持してんだよ、ゴラァ! ハァハァ...。 ちょっと脱線してしまったが、要するに私はオタク第一世代でありながら、 モダンの立場を支持する位置にあるわけだ。だから、物語すら必要としない第二、 第三世代のあり方に危機感をもってる。とはいえ、法・国家・教育の背後に「大きな (メタ)物語」が必要である、という認識については確固たるものがあるが、それが 「どういう物語でなければならないか」については、とても相対的に 「国民のみなさまが支持しうる物語であればいいよ」と思ってる。自分の信じる 「小さな物語」の「大きな物語」への昇格については、「そーなったらいいのにな」 くらいの気合いしか入ってない。 ところが、今の日本の様子をみていると、「大きな物語の凋落」とその後を埋める 「大きな物語の不在」が危機的状況にいたりつつあることは明白だ。誰か 「大きな物語」を提案しないのかと思って見ていると、 手垢のついた過去の物語の焼き直しばかりが目立ち、しかもその背後には、 なにか利権とか金権とかそういうものの腐臭がしている。それなら「ハッカー倫理」 は、それらに比較してかなりマシですよ、と言いたい。そう思って、 ハッカー倫理的考え方を現実の社会とどう擦りあわせるのかを問題意識の中心に据え ながら研究していたら、なんと、日本の国会議員たちが、「オープン・ ソース的な...」とか「Linux的な...」とか言い出した。 言ってる本人は理解度0%に違いないが、 政策の中枢にいるブレーン達が吹き込みはじめたことは明らか。あれあれ、 と思っている間に「小さな物語」は「大きな物語」 への昇格の第一歩を踏み出しはじめていたわけだ。 その理由については、すでに『グリゴリの捕縛』で説明してあるので、 繰り返さないが、簡単にまとめてしまうと、ハッカー倫理は ---
で、私はどうするのかといえば、オタク第一世代だし学者なので、本気で力んで 「国会前ですわりこみだぁ!」とかやるつもりは全然無く、いずれ「大きな物語」 になるかもしれない「小さな物語」 の精緻化と応用可能性についてボチボチと研究していくつもりだ。 いつの時代も人文系の学者というものは、自分の「小さな物語」を紡いで、 いつか社会が大変動したときに必要とされる「大きな物語」 を準備しておくことを仕事とするオタクたちだった。
6 おわりに『動物化するポストモダン』を読み終わったあと、学生 F君、 K君とロージナ茶房 [9]で議論した。 そこでの議論を整理しようとおもって書き始めたのが、このエッセーなんだが、 書きおわってみると、 自分のやってる仕事と自分が観察した大学のあり方に関する私のモヤモヤしたものを 整理して、自己分析してるような文章になった。まあ、 春休みにチャッチャと書く文章は、こういうものだろう。 私自身は、上に書いたように、「情報の自由」 を柱に据えた法とか制度とかをボチボチと研究していくつもりだけど、 これを読んだ人たちのなかに国の偉い人とか大学関係で偉い人がいたら次のことを提 言というかお願いしたいと思う。 国の偉い人は、本気で気合いの入った「大きな物語」 を提示することができないのなら、なんかコチョコチョと「オープン・ ソース的な...」とか「Linux的な...」とかイデオロギーのつまみ食いをせず 「21世紀の日本は、ネットワーク文化を中心に据えて、オープン・ ソース的理念を国是とします!!!」(ドン!!と机を叩く) くらいの意気込みでやってみたらどうだろうか。それぞれごく小数ではあると思うが、 それこそ国際的な支持を集められるぞ(笑)。おそらく、 情報産業の競争力強化という点でも有効だと思うんだけど。 大学の偉い人は、情報ナントカ学部とか、メディアなんとか学部を作るなら、 徹底したUNIX教育とネットワーク文化研究を根幹に据えた文理統合学部としてやって みたらどうだろうか。私の経験からすると、 文系学生には新時代のリテラシーたるコンピュータやネットワークに関する知識が決 定的に欠けていて、逆に、理系学生には、 技術が社会に与える影響に関する問題意識が決定的に欠けている。 この二つの欠陥を補える教育機関は、現在もこれからも必要だし、 そういう高等教育をうけた学生達は次世代のエリートとして社会で活躍できること 請け合いだ。いまのところ、こういう教育方針を掲げている大学はほとんど無いので、 今のうちにやればトップに立てる。 そうそう、オックスフォード大学や、スタンフォード大学には、 こうした視点での研究機関がもうできてるんだそうだ。詳しくは知らないけど。 こう書くと、すこしは私の意見にも説得力が出るかな? さて、最後にこのエッセー全体を見渡すと、私は、 ハッカー倫理的価値を憲法における政体(Constitution)に適用しなさい、 と主張していることになる。すると、ハッカー倫理的価値を憲法における権利章典 (Bill of Rights)に適用することを主張した『グリゴリの捕縛』 と対を成すことになる。両方の文体とか「重さ」は随分違うが、これでまあ、私の 「小さな物語」の基礎が示せたんじゃないだろうか。
Note
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白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp |