De Legibus et consuetudinibus Interreticuli

法と政治の基盤について

白田 秀彰とロージナ茶会

前回、投稿が「一通も来ませんでしたぁ」と書いたら、かなりたくさんの人からの励ましとネタ提供のメールをいただきました。ほんとうにありがとうございます。まだ見捨てられてないんだなぁ、と心強く思いました。読者から見捨てられた連載って、切ないですよねぇ。さて、見捨てられてなさそうなのをいいことに、自分の書きやすいネタで今回やらせていただきます。書きやすい、とうと語弊があるな。ここのところ、なんとなく読んだ本が繋がって、法の根っこに関する話に到達したので、「法と慣習」で書かせてもらおうかと。皆様から頂いたネタは、必ずやそのうち反映させていただきます。

以下のダラダラした論述は、ローレンス・レッシグの一連の著作、最近だと比較的わかりやすく書かれた『Free Culture』や、キャス・サンスティーン『インターネットは民主主義の敵か』を理解するときに役に立つんじゃないかと思う。立たないかもしれないけど。この領域に興味がある人は、ぜひぜひ両書を読んでみて。きっといいことがあるよ。たぶん。

さて、本題。学者をやらせていただいているので、研究費というのがある。あんまりたくさんではないけど。で、今年はそのほとんどを書籍の購入にあてた。買った本を整理しているうちに、こんな本注文したっけ...?という本が混じってた。それがアダム・スミス『道徳感情論』。『国富論』か『法学講義』のほうを読むのが普通だと思うんだけど、まあ、買ったからには仕方がない。

で、読み始めた。...つまらん。同書は、人間が相互にコミュニケート不全だという前提からスタートする。

われわれは、他の人々が感じることについて、直接の経験をもたないのだから、彼らがどのような感受作用を受けるかについては、われわれ自身が同様な境遇においてなにを感じるはずであるかを心にえがくよりほかに、観念を形成することができない。... われわれの想像力が写しとるのは、彼のではなくわれわれ自身の、諸感覚の印象だけなのである。

『道徳感情論』 I. i. 1. 2.

だけど、もし自分が相手の立場だったらどのような感情が発生するか、という想像力を基礎にした感受作用があるんだ!ということにして、社会に存在するさまざまな道徳的規範がどのように発生するのか、ということを文庫本で4cmの厚さにわたって延々と書いている。何度も意識を失いながら(つまり寝た)、ようやく読み終わった自分を誉めてあげたい私なんだが、実は後半まあまあ興味深く読めるようになった。

教養のある人なら当然知ってることなんだろうけど、私は知らなかったのでここで解説しておくと、有名な『国富論』で「近代経済学の父」と呼ばれているアダム・スミスの本来の肩書きは、道徳哲学の教授。現在の難解かつ抽象的な哲学よりも、もっと具体的かつ実践的な哲学の先生だったんだろう。で、彼の同時代が高く評価していたのは『国富論』ではなくて、この『道徳感情論』だったわけ。こんなにつまんない本なのに。彼は法学に関連した本も残している。彼の法学の講義のノートからまとめられた『法学講義』というやつ。

『道徳感情論』でアダム・スミスが社会的規範の要としているのが、感受作用(同感)と中立的観察者と呼ばれるもの。(1) ある事象から生じる私自身の感情と、私の状態を観察する他者の感情が適切に同調するか否か。(2) 他者が私たちの感情に同調する場合、他者は私について肯定的評価を下し、そうでない場合は否定的評価を下す。(3) 私たちは他者の同調に応じて、肯定的評価を得られるように、自らの感情の制御を行うようになる。つづいて、(4) 自らの行動について他者の評価を事前に予測し、自らの感情や行動の制御を行うようになる。 (5)他者の範囲が身近で具体的なところから世界に拡大され、人類一般に至ったとき、一般的な外的規範が形成される。(6) 人類一般からの評価予測が内部化された場合、私の中に中立的観察者が形成され、自らの感情や行動を制御するようになる。...というようなプロセスで規範が内部化されていき、内部に存在する中立的観察者の判断によって、よき市民としての活動ができるようになるんだ、というような趣旨だったと思う。ときどき寝ぼけながら読んだんで、間違っていたら、アダム・スミス研究者からの批判・訂正を喜んで受けます (いっぱい来そう...)。

はじめのほうを読んでいて、気になって気になってしょうがなかったことがある。アダム・スミスは、人間と人間が直接コミュニケートできない、という前提からはじめているくせに、自分が相手の立場であった場合にどのように考えるか、どのように感じるのかを推測できるというところを与件としているところ。さらに推測に基づいて発生した感情に応じて、他者に関する評価を下すわけだけど、その評価基準がまた与件になってるところ。彼がこうした与件をどうやって説明しているのかというと、「自然がそうするのだ」でブッちぎってしまってる。あややや。

このあたりで読破を諦めようとしたのだが、考え直してみた。『道徳感情論』はアダム・スミスが大真面目に主著だと考えたわけで、同時代の人たちもそうみなしていた。ということは、その当時の教養ある人たちは、自然が人間にもたらす想像力、感受力、判断力を「あたりまえ」だと思っていたに違いない。だから今の読み方としては、この本に書いてある内容をそのまま受け取って自らの規範意識について反省するよりも、経済学の基礎となった『国富論』や、法学にかんする『法学講義』において彼が想定していた「人」とはどんな感情をもち、判断をする人たちなのかを知るものとして読むべきなんだろう。そもそも経済学や法学における「合理的人間」は謎めいたフィクションとして捕らえられてきたわけだけど、それを明らかにするものが『道徳感情論』なのかもしれない。

余談だけど、『道徳感情論』には、「人の気持ちがわからない」と困惑する、かつての私や、今の若い人たちや、ヒッキーの皆さんにとっても、イイことがときどき書いてあったよ。ただ、読み通すのは辛いよ。大部分において確実に眠くなると思う。

『道徳感情論』の最後の部分で法学に関する議論になる。アダム・スミス自身はスコットランド人で、スコットランドは大陸法系。制定法に重点がある。一方、彼が学生時代をすごし、同じ君主を戴くイングランドはコモン・ロー系。判例法に重点がある。彼はその両方について一般的に適用できるような話をしようとしているんだけど、どうも同書はコモン・ローにとって より役に立つように思われた。というのは、前々回に書いたように、コモン・ローは常識に依拠する法体系であるから、正義の実現は常識の健全性に拠っている。同書は、人間の感情がいかに理性的に制御されることで社会的調和が生まれうるかについて書いているわけだから、コモン・ロー体系の基礎にあたる部分について分析していることになる。

さて、こうして『道徳感情論』は、理性の時代である18世紀において、どういうものの考え方をする人が望ましいと考えられていたかを知るのに、好適な本なんだと思う。そして、これがまた重要なんだが、現在の経済学や現在の法学の基礎が この18世紀に提唱された合理的人間像に依存して体系づけられていること。でね、この前提は現在も変わってないし、経済学はいざ知らず、法律学では、いまだにこの合理的人間像が前提になっていることは間違いない。(コモン・ローだと時代に応じて法理が変化する割合が比較的に大きいので、ズレは緩和されているかもしれない) だから、同書を読んで感じる違和感とかズレは、私たちが法律理論に感じる「この世から浮いた感じ」の説明になってるはず。

では、『道徳感情論』が喝采をうけた18世紀には、そこで描かれているような人間像が実現していたかというと、ぜんぜんそうではないと思う。同書が書かれた当時でさえ、あるべき人間の心の動きの事例として挙げられているのが、ギリシャ・ローマ時代の古典作品あるいは同時代に好評えた文学作品など。この当時のイギリスで、それだけの教養を備えた人は、富裕階級でありエリートであることは間違いない。「じゃあ、経済や法を運用する社会 society を担うと想定されていたのは、そういう人なの?」と、聞かれれば、答えは「そのとおり」。「それじゃ、民主主義じゃないじゃん」といわれそうだが、アダム・スミスが説明しようとしたのは、市民社会 civil society であって、democracy ではない。『道徳感情論』の内容をあたりまえとして受け取れる人たちから成る、社会の体系が想定されているわけだ。このことからわかるのは、経済も法もある特殊な世界観というか信念というか、そういうものを持っている人たちを前提に設計されているということ。まあ、言ってみれば仮想世界で動くシステムなんだ。

こうした市民社会が、それ以前の封建制社会に比較すれば、かなりマシに動作するらしいことがわかったので、より広い人々にその恩恵を広めなきゃ、と始まったのが啓蒙主義。教養ある市民層からみれば、庶民は、野蛮な情動に突き動かされて不合理に動いているように見えていた。こうした野蛮な庶民を教化して、市民社会の支持者を拡大しようとしたわけだが、全員そうした市民に仕立て上げようというのはやっぱり無理だった。というか、本気でやろうとすると情報操作とか、洗脳とか、収容所とか、全体主義っぽい強制に走らなければならないだろうから、自由主義という市民社会の原則と矛盾してしまう。そういう意味では、市民社会には理想と現実のズレが内包されているわけだね。ところが、啓蒙主義の大義名分として平等思想を掲げたため、市民社会の恩恵は、全ての人に行き渡らせなければならないことになった。こうして民主主義 democracy へと移行したわけだが、達成できない理想を前提として現実の政治制度を作った段階で、最悪の衆愚政治への転落の危険を常にはらんでいることになる。

庶民の教化とは、すなわち普通教育。いまでは教育が瑣末な知識の詰め込みに陥っていて、その目的が受験というゲームになってしまっているけど、ほんとうは市民社会を担える市民の養成にあった。だから、成績の競争よりも、市民的教養の定着のほうが重要だったはず。当然、『道徳感情論』で述べられているように、市民相互の感受作用を円滑化させ、中立的観察者としての客観性を養成するようなカリキュラムが重視されるべきことになる。人々の間の感受作用を効率化する共通の土台としての、哲学とか歴史教育とか古典文学とかが重視され、自らの思考の客観性を高めるための数学や科学教育が重視されることになるだろう。実際、戦前までの教科はこのラインに沿って作られていたはず。現在では、それらは単に試験を課して、点数をカウントして、人間を選別するための「なぞなぞ」に近くなってる。なんのための教育なのか、目的が失われてしまっている。

その理由は、市民社会 civil society と国民国家 nation state が混同・同一視された上で、国民国家が暴走し世界大戦という悲劇を生んだ反省から、教育の中から人々の思想や思考のパターンを「ある方向」にそろえるような内容が排除されているから。あるいは、市民社会を富裕市民階層の構築物であると考える人たちが、意図的に旧来の市民的教養を破壊しようと狙ったからというのもあるだろう。市民社会のイデオロギーがもともと富裕市民階層のそれであるというのは事実なんだけど、そのために教育の虚無をもたらすことは社会自体の破壊につながる... 私の目には、もうその破壊が顕著に見えるんですけど、思い過ごしでしょうか。常識や世界観の分裂、他人の気持ちがわからない人々、公共性の欠如、利己主義と義務の感覚の欠如... これに後述する資本主義のダイナミズムが結びつくと状況はさらに悪化する。

こんなことを書くと、「保守」臭いオヤジの説教なわけですが、まだ続きます。

さて、『道徳感情論』を読んでいて、実はずーっと既視感があった。それは、西垣通『基礎情報学』との類似。この本も今年購入した本のリストに入っていて、私がパネラーを務めさせていただいた、6月のシンポジウムのえらい人が西垣先生だったので、先行して読んでいたわけです。現代思想っぽい用語がいっぱいちりばめられていて、名前だけは聞いたことのあるスゴイ学者たちの理論への言及もいっぱいで、その辺の知識も能力も乏しい私には難しい本だったわけです。

が、まあ私の精密でない頭で理解するかぎりでは、(1) 人間のみならず生命一般に、それぞれの個体は、意味の伝達という観点からは閉鎖していて孤立している。(2) 個体は、記号や信号として与えられる刺激に反応し、その反応の結果、個体の内部に解釈のもとになるような信号が生じる。(3) これを個体の内部が解釈することで意味が生じる。(4) 個体は意味に応じた行為を行う。これが個体外に表現されると、他に対する記号や信号となる。(5) 個体の外部には観察者が存在し、個体の信号の入出力を観察・記述し、記号や信号を生成する。(6) 個体は観察者からの記号や信号への反応として、解釈のパターンを自律的に変化させていく。というようなプロセスの繰り返しが、私たちが情報伝達だと思ってることの実際の様子であるとしている ...ように思う。あまりの難しさに誤解していると思われるので、間違っていたら、このあたりの研究者からの批判・訂正を喜んで受けます(西垣先生ご本人から来そう...)。

『基礎情報学』では、自律的に反応を変化させていく存在をオートポイエティック・システムと呼ぶ。そして、それが個体どころか細胞のレベルから、だんだんと集団レベルに拡大していって、その集団もまたオートポイエティック・システムになるんだとする。...と理解しましたが、どうなんでしょうか。ところで、「オートポイエティック」って、もうすこし直感的な名前って無いのかな。書くとき長いし。

アダム・スミスの人間モデルと、西垣先生の情報伝達モデルは、似た状況を説明しているように思う。こうしたモデルで、私がすぐ思い浮かべたのが、山形浩生『コンピュータのきもち』に出てくる、「真っ暗な部屋に閉じ込められた女の子」のモデル。同書を持ってる人は、37ページからの部分を読んでみて。たぶんこれが直感的に一番わかりやすい。でも、これはコンピュータの説明として挙げられた例なので、アダム・スミスや西垣先生のモデルに適切かというと、そうでないかもしれない。

アダム・スミスのモデルは、孤立した個体が相互に感受しあうための基礎は自然が与えるとした。西垣のモデルは、孤立した個体が相互にコミュニケーション(信号を交換)することで、個体の解釈プロセスが協調するように調整されていくとする。また、社会で交換されるコミュニケーションをある視点の観察者が記述することで、個体の解釈プロセスは、その記述に制約されるようになるという。さらに、この社会の全体的コミュニケーションをある視点から観察し、記述するのがマスコミュニケーションなんだという。また、社会において共有されている、解釈に関する一般的・定型的な基準である「意味ベース」が存在するんだという。このコミュニケーションの観察・記述と意味ベースが私たちの世界観を構成していることになる。

ここで、わかってくる事は、アダム・スミスの時代に「自然」として当然視されていたものは、実は当時の富裕市民層以上の階層が共有していたニュースや学問や教養であって、ものすごく限定的かつ人工的なものだったということ。逆に、アダム・スミス的「自然」に依拠した合理的人間像は、現代においてマスコミと意味ベースで制御されうる現代の人間像とかなりの程度ズレていると考えるのが当然だ。

だから、経済学がそうとうな努力をしてモデルを作ろうとしても、なかなか成功しないらしいのは、現代人は理性的・合理的に行動しておらず、むしろ、経済の力によって制御されているマスコミと意味ベースによって人の行動が制御されているからかもしれない。法律学がそうとうな努力をして機能する法律を作ろうとしても、なかなか成功しないどころか、順法意識自体がどんどん低落しているのは、法体系の根本が期待している理性的・合理的人間なんて、もうどこにも(日本においては元から?)いないからかもしれない。だったら、経済学や法律学が一生懸命に気まぐれでバラバラな現代人を説明・誘導しようとするよりも、経済学や法律学に沿うような人間を作ってしまえばいいじゃん!と考えるのも当然だろう。というか、教育ってそういうものだったはず。

ただ、現代では、そうした教育はとても難しい。アダム・スミスの「自然 (≒意味ベース)」を構成していたものは、長い伝統に裏打ちされたキリスト教の教義やギリシャ・ローマの古典であったし、その当時のマスコミは、誰かによって支配・操作されることが少なかった。いや、支配・操作されていたのかもしれないけど、それは、その当時の価値判断から見て望ましい市民社会を構成する目的に向けて操作されていたと言っていいと思う。ところが、先に述べたように現代では、望ましいという価値に関して争いがあって、社会の維持という目的について機能することが検証されている、歴史や伝統に単純に依拠することはできなくなっている。その一方で、現代のマスコミと意味ベースは、西垣先生の記述に従えば、「新奇 / 陳腐」「人気 / 不人気」という商業主義的で扇情的な基準にのみ依拠して、構築され操作される傾向にある。これはマスコミや意味ベースを維持構築すべき出版・教育業界が、経済的・経営的に合理的に行動した結果そうなったわけで、仕方のない面がある。

けれど、私の個人的意見としては、このままでいいとはあんまり思えない。マスコミや出版・教育業界は、たんなるビジネスではなくて、社会を構築・維持するというきわめて高度な政治的役割を果たしているにも関わらず、現在、そうした認識はむしろ危険視されて無視すべきものとされてしまっている。また、本来、メディアの政治的自由を意味していた「言論表現の自由」が、メディアの政治的役割が等閑視されるなかで、メディアの堕落の隠れ蓑にされていることは、まことに嘆かわしい限り。いまのメディアが売り捌いている言論は、社会を分裂・破壊する方向に邁進しているように思われてならない。それが金銭を生むとしても、それは数百年にわたって蓄積されてきた重要な政治的社会基盤を食い潰しながら金銭に変換しているだけではないかと懸念してしまう。

さて、すでに賢明なる読者の皆様は気がついていると思うけど、マスコミュニケーションと意味ベースを制御して、政治的に機能する文化的・政治的社会基盤を作ることは、民主主義的には行い難いか、行えない。「こっちの方がよさそう」とか「なんでもいいよ、楽しければ」というような感じで選択された基盤が、はたして長期的にみて破綻しない社会を実現してくれるかはなはだ怪しい。これは一大事なんだ。だから、どこかにエリートがいて、どのような文化的・政治的環境を「自然」なものとして設定するかについて慎重に準備することが避けられないんじゃないだろうか。個別具体的な政治的決定については、民主的プロセスで決定することが、おそらくもっとも望ましいんだろうけど、民主的プロセスが動作する基盤は、最高の理性と知性をもって設計し、設定し、維持しなければならないんじゃないだろうか。それが、どのような民主的プロセスが動作するのかに、強く影響するという危険があるわけだけど、なんとも仕方がないんじゃないかと思う。

哲学や文学のように政治にあまり関係がないと思われがちな人文系の学者の皆さん、エンターテイメント業界を含むマスコミに影響力のある皆さん、あなた方の仕事は、単に流行を生み出してお金を生み出すだけではないのです。その責任は、おそらく政治家よりも重い。あなた方の深慮が、機能する民主主義を守れますよう。

『インターネットは民主主義の敵か』からとても印象的な一節を引用して、今回はおしまい。

1787年の夏、米国憲法の起草者たちは、フィラデルフィアでの非公開の会議を催した。会議が終わると、当然のことながらアメリカ国民はその成果に大きな関心を寄せた。現在コンベンションホールとして知られている建物の周りを大勢の人が取り囲んだ。ベンジャミン・フランクリンが建物から現れると、群集のひとりが質問した。「私たちに何を授けてくれたのですか」。フランクリンの回答は希望に満ち、かつ挑戦的なものであった。「共和政。あなた方が維持できればだが」。

『インターネットは民主主義の敵か』 p. 115.

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告知

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暑いですね。みなさまいかがおすごしですか? ネタ切れ傾向にあるのですが、今回はまさにネタを拾ったという感じ。とはいえ、観念的な話なんでツマんなかったかもしれませんね。ごめんね。

次回は、以前にやったように読者からの投稿をネタに茶会メンバーで語りあう「実況中継」にするか、あるいは「プライバシーと個人情報保護」ネタでやろうかと思っております。実況中継ネタの場合は、サブテーマを「迎合について」にしようかと。これまで本連載に戴いた批判点を真摯に受け止め、読者のみなさまにとことん迎合したスタイルでやったらどうなるか... なんて考えています。

で、本連載で取り上げた「内容」についてではなく、「スタイル」とか「文体」とかそういう点についてご批判・ご意見があれば遠慮なく、shirata1992@mercury.ne.jp 宛にお寄せください。よろしくおねがいします。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 准教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp