De Legibus et consuetudinibus Interreticuli

意思主義とネット人格・キャラ選択時代について

白田 秀彰とロージナ茶会

前回までの三連載で、細分化していく私たちの世界観と、法が機能する前提としての常識についての話をしたわけだけど、今度は、私たち自身の人格が分裂していくことと、法が機能する前提としての主体についてのお話。

前回までの連載のなかでこんな事を書いた。

近代が「生き物」としての人間に与えたもっとも苦しい枷は、もしかすると「自分が唯一の人格として一貫して自分でなければならない」ということなのかもしれない。時として私たちは、自分以外の「何者か」になりたくなる。それが、私たちを電網界での仮面劇へ誘う力のひとつなのかもしれない。

これを受けた形でネット人格について書こうと思ってた。すると、5月7日の日本経済新聞で「キャラリング」なる流行り言葉が取り上げられていた。リードを引用する。

「キャラ的にOK」「キャラがかぶっちゃった」。若者の会話によく出てくる「キャラ」とは、性格や人格という意味のキャラクターのこと。これが発展して、本来の自分とは別の人格を使い分ける「キャラリング」が目立ってきた。

キャラリング...初めて聞いたよ。ロージナ茶会および私のゼミの学生に、「キャラリングって聞いたことある?」と聞いたら誰も知らなかった。本当に流行り言葉なのか疑わしい。で、このキャラリングに関する記事の最後の部分には、次のような記述がある。

こうした「キャラリング」は若者やタレントの世界だけではない。まだ一部だがインターネットなどを通して、大人の世界ににも入り込みつつある。

日経の記事では、キャラリングがネットを経由して大人世代に浸透しつつあるように書いているが、私の知る限り、電網界でのキャラリングすなわち人格の使い分けは、極めて初期から行われていたはず。90年代初めのころまで電網界でのコミュニケーションは、ほとんど文字だけに依存していたから、ネット越しにチャットしている相手がどういう人でどんな社会的背景を持っているのかなんて、本人が明かさない限り知る由もなかった。だから逆に、いろんな社会的背景を装ったり、年齢や性別を装ったり、性格を装ったりすることは、そんなに難しいことではなかった。当時の電網界では女性が圧倒的に少なかったことを受けて、男性の人気を得るために男性でありながら女性キャラを演じるネカマ(ネット・オカマの略)は、かなり広汎に見られた。だから、その当時、電網界で女性キャラに会ったら、まずネカマを疑うのはあたり前の態度だった。

さらにいえば、仮想の世界でまったく別のキャラクターになりきって遊ぶロール・プレイング・ゲームは、いわゆる初代ファミコン時代以前から存在するわけで、ディスプレイとコントロール・パッドあるいはキーボードを前にしたとき、別のキャラクターになりきる訓練が、もう20年以上にわたって子供たちに対して行われてきたわけだ。だから、いまさらキャラの使い分けについてアレコレいわれても、今の若い人たちには、なぜそれが問題になるのかすらもピンと来ないはず。

もっと言えば、同記事の下部の囲み記事にも記されているように、

日本では「矛盾がない一個の人格」より「場に応じて顔を使い分ける」のが正しい大人とされる
わけで、日本社会においては、伝統的に個々人の個性よりも、その人が置かれた立場に応じた人格が期待され、またそうした人格に自己を同一化させるのが通常だった。わかりやすい例は、伝統芸能や伝統工芸でみられる「襲名」という制度。それぞれ生まれたときに与えられた名があった人が、ある特定の芸能あるいは技能を身につけたとき、その芸能や技能を象徴的に示している名に、「入り込んでいく」こと。ある個人が名前を変えていくのではなく、ある技能なり社会的地位に「名」があって、それに人が組み込まれるイメージ。

というわけで、一貫しかつ個性的な人格を要求する西洋世界の視点から見ない限り、場に応じたキャラの選択行動なんて取り上げるまでもないことだと考える。とはいえ、新しい要素があるとすると、場によって選ばれるキャラが変化していることではないか。

30年ほど前までは、場に応じて呼び出される人格というのは、「父」、「顔役」、「上司」、「教師」、「学生」... といった社会的文脈に位置づけられ、立場に応じて要求される一定の判断規範、行動規範に従って行動する人格であった。これを「社会的キャラ」と呼ぶことにする。一方、現在のキャラの選択行動で参照される人格というのは、そうした伝統的な社会化されたキャラではない。これは、学生達との議論でも指摘された点だが、彼らが誰かのキャラについて理解し、また自分のものとしてキャラを選ぶ基礎となっているのは、ドラマ、アニメ、マンガ、ゲーム世界なわけ。これを「仮想的キャラ」と呼ぶことにする。

地域コミュニティが崩壊し、家庭が空虚となり、子供たちが学校という収容所に閉じ込められる中で、いわゆる「若い世代」が人間関係のモデルとして参照できるのは、モニターを通じたドラマ、アニメ、マンガ、ゲームくらいしかない。そうした作品群においては、物語世界の展開に必用なキャラクターが必用な限りで配置される。こうしたキャラクターは、東浩紀氏が『動物化するポストモダン』で提示した図式に従えば、キャラクターの要素がカタログ的に蓄積されたデータベースから引き出され、合成されて設定される。

現実に存在していた社会的キャラのシミュラークルとして作られた仮想的キャラ。いくつもの物語に現われる仮想的キャラ達を分解して抽出した要素を備えたデータベース。データベースから順列組み合わせ的に再合成される仮想的キャラのシミュラークル。こうして現われる仮想的キャラは、「機能する社会」を支える要素として存在していた社会的キャラとは異なり、物語的な「場」が生み出す状況を支える要素としてしか機能しない。だから、状況が変化すれば、たとえばクラス変えが行われたり、職場が変わることによって、ある人物へのキャラの割り当ては容易に変更されることになる。ある意味では、こうしたキャラの流動性は私たちにとって気楽な状況を提供してくれているのかもしれない。

社会的キャラは、まず大きな物語としての「社会」が前提とされており、その社会を機能させるために、人々には階層的な社会的地位が割り当てられてきた。その上で、その人物の社会的位置に応じてキャラが自動的に割り当てられてきたわけだ。機能が先にありキャラがそれに従うわけだから、あるキャラ類型が同時に複数の人間に割り当てられていても問題ない。これが人が社会化することであり、社会的地位に応じて与えられるキャラに疑問を感じることはほとんどなかっただろう。

しかしながら、物語世界では、同じ機能を果たすキャラは複数必要ない。まして、物語の進行に貢献しないキャラクターは必要ない。主役と彼をサポートする類型的なキャラクターが配置され、それに対する類型的な悪役群とヤラレ役のザコキャラが配置される。残りの連中は無視だ。ある「場」において排除された人たちは、同じ物理空間内であっても、別の「場」を設定して、そこでのキャラを獲得することになる。こうして、物理的な空間、たとえば学校のクラスが一つであっても、そこには複数の「場」が生じることになる。クラスに生じる「グループ」というのは、こうした「場」を共有する集団だと考える。

社会的キャラでは、地位が先行していたから、キャラの奪い合いはすなわち社会的地位の奪い合いであった。ところが、仮想的キャラの場合は、フラットな位置づけにあるそれぞれの人々が、まず「場」の支配を争い、次にキャラを奪い合う競争をする。秩序とか権威といったものが決定してしまう社会的キャラの場合よりも、自由な参加者が自由に奪い合う仮想的キャラの場合のほうが、競争は熾烈かもしれない。これが、「キャラ選択」が重要な価値としてみられるようになった理由ではないだろうか。

学生達が異口同音に指摘していたのは、自分が新しい「場」に入ったときに、どのキャラが割り当てられるかが決定的な重要事項であるということ。主役級あるいは主役サポートキャラを獲得できれば、その場を支配する側にまわることができる。悪役やザコキャラを割り当てられれば、その集団で楽しくやっていくことは困難になる。こうしたキャラの争奪が「場」でそれとなく、かつ静かに進められる。この過程で、ある役割のキャラを複数の人物が目指す場合、「キャラがかぶった」として争いになったりする。こうした過程は、現実の人間集団の構成と運営が、仮想世界のシミュラークルとして進められるという捩じれた状態を意味している。具体的には、たまたま集まった、それぞれ個性をもった40人の子供たちによってクラスが自然発生的に構成されるのではなくて、主導権を握った数人の子供たちによってクラスの性格が、たとえば「金八先生」のクラス、「ごくせん」のクラス、「中学生日記」のクラスと設定され、それに合わせて、その他の子供にキャラが割り振られ、あるいは、その他の子供たちが「場」を読んで自主的に獲得していくというわけだ。

この「場」が強制してくるキャラを受け入れ、それを演じうることが「場の空気が読める」ということであり、逆にそれに抵抗するならば「場の空気が読めない」ということになる。日経の記事では、「10代の男の子が嫌いな男の子」の1位が「場の空気が読めない人」ということだ。この事からも「場」が強制してくる仮想的キャラの圧力の強さがうかがわれる。見えなくなった「イジメ」と「キレる」不可解な子供たちの状況も、この仮想的キャラの圧力から説明することができる。「仲良しグループだと思っていたのに、ある日突然キレて、グループの友達にカッターナイフで切り掛かった」というようなコメントを見たことがある。こうした不可解な行動の背景について、ある学生は次のように指摘した。

クラスの場の雰囲気で、ある子に、たとえば「イジられキャラ」(からかわれて遊ばれる道化的キャラ)や「使いッパキャラ」(ボス的立場のキャラに支配されて使い走りをさせられるキャラ)、を割り当てられてしまった場合、場の空気を読めば、彼はそれらのキャラを演じなければならない。演じつづけられる限りは、彼はそれなりに人気を得たり、居場所を得ることができる。しかし、彼がそうしたキャラに満足できなかったり、あるいは彼本来の人格がそのキャラに反する場合、ある時、彼はキャラを放棄する。

こうした「場」への反逆が、場から彼を排除する動きである「イジメ」につながったり、逆に「場」を破壊する爆発力として、彼が「キレる」状態に入るきっかけとなる。

なるほどねえ。私には、この感覚がわかる。私には、勉強のできるがスポーツが苦手な「ガリ勉君」キャラがずっと割り当てられてきたからだ。まあ、事実その通りだったわけだが、それを忠実に演じつづけた結果、ほんとに学者になってしまったのかもしれない。だとすれば、私は学者のシミュラークルか。かように子供たちは「場」の空気に怯え、設定されるキャラに戦々恐々としているわけだ。その圧力の物凄さ、それに押しつぶされる心を思うと心が痛む。

さて、このように人格それ自体が類型化、仮想化してしまったこと、それらが「場」から強大な圧力をもって私たちに押し付けられつつあることが、法律と何の関係があるのかといえば、それは法律体系、とくに民法体系が依拠している「意思理論」あるいは「意思主義」を揺るがす事態だからだ。いや、そう思っているのは私だけで、他の法律家の皆さんは意思理論は現在においても磐石だと思ってるのかもしれない。あるいは、もとより法体系は、意思理論を単なるフィクションとして設定しているだけなのかもしれない。

意思理論は、なぜ私たちが契約内容に拘束されるのか、ひいては なぜ法律に服さなければならないのかを説明する理論だ。議論の前提となるのは、合理的かつ理性的で時間的に一貫した人格をもつ個人の存在だ。要するに近代人(「モダン」の人)。こうした近代人像は近代経済学も同じように前提としている。

まず、個人は合理的なわけだから、自らについて最もよく知る「本人」として自らの私的な権利・義務関係 (経済学的には市場における交換関係)を、その意思によって自由に決定して規律することが最も妥当ということになる。情報学的にみても、20世紀までの環境において、自分自身の効用関数 (利害・得失についての内的な判断基準) について最もよく知ると推測されるのは「本人」なんだから、この仮定は合理的だ。また、この前提においては、ある人が合理的な決定に失敗したとしても、自分が決定し自分がその結果を享受するわけだから、問題はないことになる。すなわち自己責任論だ。

では、自由に決定してよいはずの私たちが、なぜ契約内容や法律に支配されるのか。それは、「自分で望んだことだから...」というのが理由ということになってる。まず、契約の場合がわかりやすい。1. 私たちは理性的で合理的だから、契約内容について正しく理解することができる。また、2. 事物の因果関係について理解しているから、自分が行った契約内容から生じるであろう結果を合理的に予測できる。3. 原因となる契約を締結した「私」と、その契約内容から生じる結果を享受する「私」は同一である。 4. ゆえに、私たちは、契約締結時にその結果までも含めて望んでいたのであり、その自らの決定ゆえに契約内容に拘束される、ということになる。法律の世界では、法律がその実現を容認・支援してくれる種類の行為がある。これを法律行為という。契約もまた法律行為の一種だ。だから、上記の1-4の説明の「契約」を「法律行為」に置き換えると、その説明を法律行為全般におおよそ一般化することができる。(細かいことをいえば「単独行為」といわれている行為については、うまく当てはまらないらしい。)

もう一つ、別の理由から契約内容に支配されるべきことが主張できる。契約は要するに約束であり、将来のある時点において実現されるべき状態を予め定めることだ。私たちが現時点での行為を選択するにあたり、複雑に関連した事物の因果関係を計算し、また将来の状態について予測し、もっとも適切な結果をもたらすであろう行為を選んでいるはず。この合理的な予測がすべて実現するのであれば、社会は幸福に満ちた世界になるはず。ところが、契約が一方的に変更されたり破棄されたりした場合、予測された結果は生じなくなり、さまざまな合理的選択の結果が非合理なものとなる。これは一般的にみて損失を生じさせる。それゆえに、契約は守られなければならない。

次に、なぜ法律に支配されるのかについて説明する。上記の1-4の説明は一般的なものだが、私たちが備える理性や合理性には個人差があるし、ある事項については正しく判断できても、別の事項については誤った判断をするかもしれない。それゆえ、私たちは権利・義務関係について失敗したり不満を感じたりするし、さらには紛争になるかもしれない。仮に、私たちが常に理性的かつ合理的に行動できるのなら、理論的には紛争は発生せず、法律も裁判所も必要ないことになる。逆にいえば、私たちは理性の面においても合理性の面においても多大な欠陥を持っているからこそ、法律や裁判所が必要になる。こうした見方に立つとき、法律は、理性的かつ合理的な人間の一般的な行動について記述していることになる。すなわち、法律は、理性が期待している人間のあり方、行動を示すものであるわけだ。ということは、私たちが法律の規定に反するとき、(ここからが重要!) 私たちは、非理性的な欲望や臆見等によって、自らの中に備わっている理性あるいは合理性を歪められている状態になっているわけ。逆に法律の規定に沿った行動をするとき、私たちは理性的な意味で欲望や臆見から「自由」になっているというわけだ!

こうした理屈によって、なんと私たちは法律に従うことで「自由」になれるということになる。これが「近代的あるいは理性的自由」。私たちは「自由になるために、法律に従うべき」ということになる。そして、法律は、私たちの不完全な理性によって生じた非理性的状態を回復するために機能し、国家権力を後ろ盾として「理性的な当事者であれば実現したであろう状態」を実現するわけだ。近代理性万歳!(ウソ)

(ウソ)と書いたのは、理性主義の極北としての全体主義、たとえばナチズムやスターリニズムなんかが、その非人間性をまざまざと見せつける中で、理性主義の評判は いまのところ良くないから。そうしたなかで、価値相対主義、寛容主義、要するにリベラリズムが主流となってきて、私たちの今住んでいる民主主義的世界がある。だから、近代法が予定していた理性ゴリゴリの理論は、かなり弾力的に運用されているし、またできる限り人間的な価値を法律学に導入していこうとする努力は継続的に行われている。

[注1] 理性的であるということが法律行為の前提となっているわけなので、法律が予定している程度の理性や合理性を一般的に欠いているとされる人たちについては、法律行為を制限することになる。たとえば未成年者は、法律上有効な法律行為をすることができない。しかしながら、こうした制限能力者を決定するにあたって、法律の規定と裁判所の判断に画一的に従うことが合理的なのかどうかについても、考え直す必要があるかも。

[注2] 上記の「意思理論」に関する説明は、民事分野というか市民法領域における説明になっている。刑事分野における意思理論というか、刑法に規定された行為をしようとする意思である「故意」に関する深遠な理論については、また別の理屈がある。「刑法総論」の教科書でも参照してみてください。

さて、ここまでの、キャラ選択の問題と、意思理論に関する説明から、読者の皆さんはもうピンと来ているはず。そう。近代法が予定している人間像って、ものすごく近代的なんです。あたりまえか。その近代的人間像自体がフィクションであって、かなり無理しながら維持されてきたわけ。それでも社会的キャラの時代には、キャラそれ自体が近代社会の枠組みのなかで形成されてきたものだから、キャラの機能と社会の間の矛盾は少なかった。また、現実界には一個の肉体としての「私たち自身」が存在しており、たとえば、多重人格のような状態に陥っていたとしても、それが「精神的疾患である」と合理的に証明できない限り、行為から生じる全ての責任が、その行為を行った「私たち自身」に課せられてきた。また、それを当然と考えてきた。

強固な一貫した人格の存在を要求する社会である西欧世界では、意思理論はそれほど矛盾なく動作してきたのかもしれない。しかし、日本ではありがちなことだと考えるが、たとえば企業犯罪や組織的犯罪において、「場」の雰囲気にのまれたまま、集団的な犯罪行為に荷担してしまった人のなかには、なぜ自分が犯罪の責任を負わねばならないのか納得できない人がいたかもしれない。また、周りの人たちも必ずしもその人個人の責任として、犯罪行為をとらえてこなかったかもしれない。「あの人も、あの立場でなければねえ...」というような話は私の周りでもよく聞く。

こうした状況を背景に、現実界よりも「場」の分裂・分立が可能な電網界の環境において、あるネット上の「場」における行為についての責任を、他のネット上の「場」や現実界に及ぼすことが妥当なのかどうかについては、検討してみる必要があるのではないだろうか。

まず、「場」が発言内容を強く規定するとき、発言者に発言内容の責任を負わせることが妥当と言えないのではないか。たとえば、世界征服を目論む悪の秘密結社の設定がある映画のファンが集って、いろんな方法による世界征服計画を議論している電子掲示板があるとする。そこでは、さまざまな悪の方法についてのネタ的議論が行われている。たとえば、幼稚園バスをバスジャックするとか、東京都の水源地に毒を投入するとか。いずれも仮面ライダーなんかでショッカーあたりがやりそうなことだ。そうした場で、つい盛り上がってしまい、具体的な犯罪計画を書き込む人が現れるかもしれない。でも、その「場」での発言を足がかりに、共謀罪[注3]なんかが適用されたりしたら、たまったものではないだろう。

[注3] 組織的な犯罪の共謀罪は、死刑または無期もしくは長期4年以上の懲役もしくは禁錮の刑が定められている「罪に当たる行為で、団体の活動として、当該行為を実行するための組織により行なわれるものの遂行を共謀した者」を処罰するとしている(法案第6条の2)。共謀罪は、2002年、「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約」批准に伴う国内法整備を目的として、法制審議会に諮問された新設法律の一つ。法制審議会刑事法(国連国際組織犯罪条約関係)部会からは、2003年2月5日に答申が出され、同年、国会に「犯罪の国際化及び組織化に対処するための刑法等の一部を改正する法律案」として提出された。http://www.moj.go.jp/HOUAN/KEIHO5/refer02.html

次に、言論表現の自由等の「精神的自由権」をとくに重視する自由主義的立場、および民主政治の前提として言論の多様性を擁護する立場からすれば、具体的に社会的害悪が発生していないのならば、社会的に容認されにくい思想や見解であっても、表明されることが原則として望ましいことになる。たとえば、ロリ系萌えの人が、自分のハァハァ妄想をネット上で公開していたとして、本当に児童虐待等をしているわけではない。こうして妄想を吐露することで、自らの精神の内面における欲望や衝動を緩和している面もあるだろう。そもそも文学というもの自体がそうした性格をもつものだし。ロリに萌えるネット人格と、普通の社会人として暮らしている現実界の人格が分裂していることで、現実界に問題が波及してこないわけだから、こうした人格の使い分けは必要な現代的技能の一つだともいえる。また、ハァハァ妄想を書いている人が、別のネット人格では、「ロリコンは許さん!」という立場を掲げて活動している可能性すらある。そうした矛盾もまたネットが許容した新しい自由だと言える。[注4]

[注4] この記事を書いている途中で、監禁陵辱系ゲーム等が好きな24歳の男性が、本当に19歳の女性を監禁して逮捕されるという事件が起きてしまった。ネット人格と現実界の人格が強固な統合性をもつとかえってマズいわけだ。もちろん、そもそも反社会的な人格が存在すること自体がケシカラン、という立場もあるだろう。しかし、ある種の人格類型の存在自体を否定する立場は、精神的自由権と対立することになるだろう。

あるいは、ネット上のある「場」独自の基準なり論理を、他の「場」のそれらと分離して取り扱う必要はないだろうか。まだネット人格を現実界の人格と分離して取り扱っているような事件はないようだが、名誉毀損事件においてネット上での基準が、現実界の基準と異なっていることを容認する傾向は現れている。

いずれもパソコン通信時代の事件なので、それがそのままインターネットにも適用できる理屈かどうかは断言できないが、たとえば、ニフティサーブ「本と雑誌のフォーラム」事件 (東京地判平13.8.27) では、

フォーラム上では参加を許された会員であれば、自由に発言することが可能であるから、被害者が、加害者に対し、必要かつ十分な反論をすることが容易な媒体であると認められ、被害者の反論が十分な効果を挙げていると見られるような場合には、社会的評価が低下する危険性が認められず、名誉ないし名誉感情毀損は成立しないと解するのが相当である。
と述べられている。一方、私も取り上げたことがある ニフティサーブ「現代思想フォーラム」事件 (東京高判平13.9.5) では、被害者のハンドルと本人との結合が他の参加者にも知られていたという事情もあって、また、加害者の誹謗中傷が著しく口汚かったこともあってか、
言葉汚く罵られることに対しては、反論する価値も認めがたく、反論が可能であるからといって、罵倒することが言論として許容されることになるものでもない。
と反論が可能である環境においても名誉毀損の成立を認めた。注目すべきは、同時に被告となっていたシステム・オペレータ(シスオペ=掲示板管理人)の責任について、原審である地裁判決では、「名誉毀損的発言を放置したことについて条理上の責任あり」とされていたのだが、この高裁判決では、「発言についても、発言者に疑問を呈した他、会員による非難に晒し、会員相互の働きかけに期待し、これにより、議論のルールに外れる不規則発言を封じることをも期待したこと」は、違法性のある不適切な対応ではなかったと判断し、シスオペの責任を否定したことだ。現実界の名誉毀損の法理を適用するならば、名誉毀損が成立するような場面であっても、電網界の「場」の特殊性によって、名誉毀損が成立しないことがあることを認めているわけ。「現代思想フォーラム」では、一見口汚い罵りのような発言があっても、それを容認することが討論の場としてのローカル・ルールであったという。こうした主張が高裁判決に影響したものと考えられる。

まだ一般的なルールは発見されていないが、このように、裁判においても電網界の「場」における発言のモード(様式)を加味した上で、法的責任の有無・程度について検討することが始まっている。将来的には、それぞれの「掲示板」や「ブログ」における発言のモードを考慮する事例も増えてくるだろう。また、「本と雑誌のフォーラム」での裁判所の理由づけにおいて、「社会的評価が低下する危険性が認められず、名誉ないし名誉感情毀損は成立しないと解する」としているところに注意してほしい。すると、電網界の人格を示すハンドルに対して名誉毀損が成立するとしても、それが現実界の人格と結合しない限り、現実界の人格に対して被害は発生していないのだ、という主張が成り立つようになるかもしれない。なぜなら、それぞれが別の「社会」に属しているわけだから、ある社会での評価は、他の社会での評価に繋がらない。それゆえ、「ネット人格への攻撃は、そのネットでの懲罰によって処理すべき」というような考え方もおかしくはない。

さらに、単純なキャラ選択の問題ではなく、現代的なキャラ選択の問題に特徴的な点について言及する。先に指摘したように、現代において選択されているキャラは、社会的キャラではなく、仮想的キャラであり、そのキャラが機能する「場」は、何らかの物語世界のイメージで構成員に把握されている。とすると、ある「場」において、ある個人が選択したキャラが、ある状況において典型的な行為をするものと設定されている場合、その個人はその状況において、当然のようにある行為を遂行するかもしれない。

これが、新学期の朝に彼女あるいは彼氏と出会うために、「遅刻ギリギリのタイミングで口にパンを咥えたまま道路の角を曲がる」程度のことであればかわいいものだ。まさか本当にそんなことをしている人がいるとは思えないが。しかしながら、なにかのきっかけで好きな女の子と二人きりになったときに、どうしていいかわからず、とりあえず以前に見たことのあるラブコメ・アニメの主人公と同じアプローチをする男の子はかなりの数に上るのではないか。学校の先生と口論になったとき、以前に見た「金八先生」の不良のセリフが口から飛び出てくるのを経験した人もかなり多いのではないかと推測する。

私が懸念しているのが、いろんなアニメやドラマに出てくる、「孤独で冷たい目をした美少年」で「悪魔に魂売」ってたり「ヒロインにだけ優しくて他人には残酷」という設定や、「幼少時代の強力なトラウマによって心を閉ざした」「主人公にだけは優しい美少女」「しばしば自殺衝動に駆られる」というような設定。具体的になんていうキャラがこれに該当するのか、私は知らないけど、こういうキャラが「ありがち」なことを読者の皆さんは認めてくれるだろう。こういう仮想的キャラを選択した人が、なにかのはずみで、社会的キャラ(たとえばリアル中学生)を逸脱して、自分自身が選んだ仮想キャラと現実界でシンクロしてしまったときに、ちょっと怖いことが起きるのではないだろうか。

自分の中では「孤独な悪魔的美少年」キャラを選択しているけど、クラスの位置付けとしては「太っちょイジられキャラ」になってしまっている、「地方都市在住の中学生体形太めのニキビ面君」が、友人にからかわれてぶち切れた勢いで、

てめえら... いいかげんにしやがれよ! ぶち殺してやる!! 謝るなら今のうちだぞ... 出でよ! 悪魔ベルゼブブ!!

と叫んだところで、まあ、後々クラスの笑いのネタになるだけだが、そういうことをやりそうな子供たちというのは増えているのではないだろうか。で、そうした仮想的キャラに自己を同一視する中で、そのキャラがやたらとカッターナイフとか、その他の武器を振り回すようなキャラだと、なんだか怖いことが起こりそうだ。友達を殺したあと、「復活の呪文をとなえたから大丈夫」というような発言をする子が現れるのも時間の問題だと思う。

私が中学生のころの話だから、もう20年ほど昔の話になるが、すでにそういった事例はあった。その当時、すごく人気のあった学園ネタのTVドラマ──なんというタイトルだったかは忘れてしまった──に、「夏彦」というキャラがいた。「妖艶な美少年でしかも不良、誰にも心を開かずにひたすらスネてる」というようなキャラ立てだったと記憶している。で、これにズッポリはまった同級生Aがいた。私の中学は校則で丸坊主とされていたから、Aも丸坊主だし、残念ながらAのルックスは「夏彦」というよりは「ムーミン」に近い印象だった。で、彼はそれまで普通の中学生だったのだが、「夏彦」キャラを選択してから、ズンズン暗く怪しい子になっていった。教師にも反抗的になり体育教師にずいぶん体罰を食らっていた。本人はそれで幸せだったのかもしれないけど、傍から見てるとずいぶん損をしているように思った。

ヲタ第一世代である私の世代も もう40歳近くになりつつある。以前、酒の席の冗談で、

あと20年から30年もすると「地球 or 国家の危機!」というような状況のときに、防衛庁の内部で「特殊な能力をもった美少女を探して来い!」という指令が出たり、戦闘機に必死に変形・合体能力を実装しようとするようなことが起きるのではないか...

と笑いあったことがある。だって、今のアニメや漫画では、なぜだか地球の危機に立ち上がるのは美少女であって、そうした美少女は変形・合体能力をもった戦闘マシンに乗ってるのが常だからだ。... もちろん、本当にこんなことをするような時代は来ないだろうと私は信じている。

物語世界の数はどんどん増えている。知財立国推進の掛け声のもと、ますます多くのアニメやゲームを子供たちに売りつけるつもりらしい。しかも世界中で。情報技術の発達によって、メディアが作り上げる世界の現実感は増している。そうした物語世界を共有する人たちのネットワークは、ますます広く緊密に作り上げられようとしている。仮想的キャラに自己を同一化しようとする心のあり方というものは、一般化し、さらにそうした仮想的キャラ選択を解読し理解するような「場」も一般化するだろう。こうして現実界が希薄化していく。

こうしたとき、物語世界が人間社会を崩壊させないような一定の枠に服することは必要なことかもしれない、と私は考える。メディアの力が弱かったとき、物語は単なる物語として娯楽であった。読者はそれが現実と異なることを当然として受け取っていた。だから、物語は「言論表現の自由」を最大限に享受し、どのような世界でも描くことができた。しかし、メディアの力が強まり、人々がそうした世界観のなかで生きるようになったとき、物語を生み出す創作者たちには、社会的責任が生じるのではないか。この世界を否定し、破壊するような物語を生み出す危険について考えるよう彼らにお願いすることは難しいだろうか。

あるいは、呪うべき世界として、すでに現実界は否定されてしまっているのだろうか。

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告知

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次回は知財ネタを... と考えてますが、どうなるやらまだわかりません。

ちょうどこの記事を書いているときに、TBSの公式Webページで、他社の新聞記事を盗用しまくっていたという新聞記事をみた。部長クラスが35本もの記事で盗用していたらしい。自分たちの権利は主張するけど、他社の権利はあまり尊重しないみたいだね。

どうしてこんな記事に注目したかというと、私もTBSの関係者から論文を剽窃されてたから。この顛末についてまとめたページは、 こちら こちら 。 私の論文を剽窃した記事を掲載した「政策空間」 とはすでに話がついているので問題はないのですが、私の論文を剽窃した当の本人からは、いまだに詫びがありません。「偶然似たんです」「あなた(白田)のことを知りませんから剽窃ではありません」だってさ。

そんなに私の書いたものを使いたければ、私の論文に関する「俺ライセンス」である プロメテウス・キャンペーン に従って、オリジナルの記事へリンクすればよかったのにねぇ...

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 准教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp