De Legibus et consuetudinibus Interreticuli

メンドウな事態とポリシー・ロンダリング

白田 秀彰とロージナ茶会

前回、「もし、ネットワークでしか代表されえないような利益が生じているにもかかわらず、そうした利益集団が代理人を議会に派遣できないような状況がずーっと維持されるならば、内乱や革命みたいなことにならないにしても、新しい形態のメンドウな事態になるかもしれない。」と書いた。「新しい形態のメンドウな事態」についてちょっと書いてから、「ポリシー・ロンダリング」について書いて、また別の「メンドウな事態」について書きたいと思う。

自分たちの自由や財産が政府によってないがしろにされている、とたくさんの人々が感じるようになったとき、いちばん安直な抵抗方法は暴動。政府を支える制度的仕組みがそれほど強固でなければ、暴動は成功しやすい。で、暴動によって政治的要求が貫徹されれば、革命ということになる。でも、たいていの場合そのまま内乱になる。革命も内乱もほとんどすべての国民にとってロクでもなく迷惑至極な結果にしかならないので、これはもっとも望ましくないやり方だ。

不満をもった人々が暴動だの内乱だのを起こして、国力を消耗し国民に迷惑をかけたりしないように工夫された仕組みが議会制だ。ケンカは議会の中での舌戦だけにしてもらって、一定のルールに従って政府を構成する人々や、その方針が入れ替わる仕組み。裁判制度も、紛争当事者の私闘を禁じて裁判所の中での舌戦だけにしてもらって、勝ち負けを一定のルールに従って判断する仕組みであったことは、ずいぶん前に書いたとおり。基本的な発想は同じ。いずれにせよ、直接的な暴力になる前に、理性的に論戦することでなんとかカタをつけようというガス抜きシステムだといえる。

だから、議会があらゆる政治的要求に対して開かれた状態になっていないことは、とても危険な状態。主張の場を失った政治的要求は、議会に参加できないことを暴力の正当化事由に掲げていずれ爆発することになる。だから、議会が可能な限り均等に政治的要求を代表することは、国家レベルでの治安問題ともいえる。この水準での治安ってのは、お巡りさんたちの警棒や盾で守られるんじゃなくて、政治家や学者が第一に責任を負う仕事なわけ。

上記の方法は、政治的要求への積極的な方法。その一方で消極的な方法がある。

政府を支える制度的な仕組みがしっかりしている場合、暴動はまず成功しない。そんな状態で暴力に訴えようなんていうのは、映画「ラスト・サムライ」の侍たちのように自らの美意識に殉じる場合か、ヤケクソである場合くらいかな。

で、そうした場合、不満をもった人々はどうするかというと、制度的な仕組みへの消極的な攻撃をはかる。古代ローマにおいても貴族の横暴に辟易したローマ市民やら奴隷たちは、仕事を放棄しローマのはずれの丘にいっせいに引き上げて不満を表明した。あわてたローマの貴族たちは、市民たちの要求を受け入れた。中世においても、領主の搾取に耐えかねた農民たちは農地を捨てて逃げ出した。近代においても、資本家たちの搾取に憤った労働者たちは、ストライキだのサボタージュだのした。

こうした消極的な攻撃は、革命や内乱に比べればまだマシなので、議会に代表を送ることが難しい社会的に弱い立場にある人たちの戦術として合法化されている。日本でも、皆さんが中学校あたりで暗記させられる「労働三権」というやつで憲法的に保障されている。これもまた、一定の不満表明の方法を保障することで、革命や内乱を避けるガス抜きシステムだということができる。というわけで、積極的には議会で、消極的にはストライキ等で、政治的要求を実現させて、最悪のシナリオである革命や内乱を避けようとしているわけだ。よくできてるよね。

ところが、上記の二つの方法には、共通の前提条件がある。それは、「ある程度の人々がおなじ要求でまとまる」ということ。議会に代表を送り込むためには、数の戦いである選挙に勝たなくてはならない。ストライキが威力を発揮するためには、できるだけたくさんの人々が参加しなくてはならない。まあ、この「数をそろえる」という前提条件が、ある政治的要求についての一般性であるとか重要性をほどよく調整していたのだろう。よりたくさんの人々が要求している事項が、より一般的な問題であり、より重要な問題であることは明らかだ。

でも、いま人々はまとまらなくなっている。まとまらないようにされたのか、まとまらないようになったのか、は私にはわからない。一つには、誰にも関与せずに生活できるような環境が整備されてしまった結果、基本的には複雑でメンドウくさい対人関係を避けるような人たちが増えたというのもあるだろう。また、私たちの生活が基本的に安全で快適になった今、要求がより高い水準のものに移行したこともあるだろう。そうすれば要求について個々人の個性や嗜好が影響する部分が大きくなるから、同じ要求をもった人々同士でまとまりにくくなる。

で、まとまらない人々は、上記の二つの要求の表明方法を使えないわけ。一人では暴動も起こせない。するとどうなるだろうか。積極的には「一人テロ」をやることになるんじゃないかと思う。無差別殺人とか、通り魔とか。自分が社会から不当に抑圧されていると感じての理不尽な自滅的犯罪というのは、最近かなり増えているような気がする。これを個人の精神状態の問題にしてしまうのは、ちょっと安直なんじゃないだろうか。そして、消極的には「一人ストライキ」とか「一人サボタージュ」ってことになりそうだ。自殺は社会からの逃避の究極的な方法だし、引きこもりはそれよりも少しは穏やかな方法。自発的に無業生活を選択するというのも、その一種ではないかな。こう考えると、年間の自殺者約3万人、引きこもり推定100万人、若年の自発的無業者推定200万人 (数字は新聞などで見かけたもの) というのは、実はちょっとした内戦状態だと言えるかもしれない。社会とか世間に対する漠然的かつ消極的な「一人抵抗活動」。

これが私がなんとなく考える「新しい形態のメンドウな事態」。

でさ、政党や組合などの人々が国民一般の政治意識の低下を非難したり嘆いたりするなら、当然、上記のように「まとまらない人々」の要求がどのようなものであるかを汲み上げて、それを政策なり方針なりとして明確化して、政党や組合の綱領やらスローガンやらに反映させるように努力してるんだと思うけど、どうなんだろう。その要求ってのは、単に「お金」とか「仕事」じゃないような気がする。また、政党や組合といった形で人々がまとまらなくなってるのが明らかであるなら、別のまとまりやすい仕組みを正規の政治過程に導入するような工夫を政治家や学者はしてるんだと思うんだけど、どうなんだろう。仮にそうした努力や工夫がされていないのなら、上記のすごく消極的な内戦状態の責任は、第一に政治家や学者が負わなきゃならないんだろうと思う。

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さて、話は変わってポリシー・ロンダリングについて。これは、マネー・ロンダリングのパロディでもある新造語。最初に使った人が誰なのか私は知らない。私は、通信傍受法制定騒ぎの頃に、知人から聞いて知った。

たいていの人は知ってると思うけど、マネー・ロンダリングの簡単な定義は、非合法な活動から得た資金を、合法的な源泉から得たようにみえる資産にすりかえることによって、個人の身分を隠すこと。代表的な方法は、非合法活動による利益を、国外の銀行との取引や国際的な金融商品の巧妙な売買で、合法的な取引によって得られた利益に見せかけること、また、そうした複雑な取引によって資金の出所を隠蔽すること。簡単に言えば、汚いお金を世界のあちこちを経由してぐるりと回しているうちに、すっきり真っ白なお金にしてしまうことだ。

で、ポリシー・ロンダリングは新造語なんで確定的な定義はないけど、次のようなものだろう。ある政策が必要だと政府が考えている。でも、さまざまな法律や制度や国民の意識等によって議論が紛糾することが確実であり、実現困難であることが予想されるとする。でも、どうしてもその政策を実現したいと考えたとき、どうするか。そこで舞台を外交や国際機関に移してしまう。同じような政策の実現を目指しているにもかかわらず、同じように議論が紛糾して困っている国の代表をどこかに集める。で、国際条約とか、国際合意とか、国際行政協定とかそういった国際的なレベルでの合意事項にしてしまう。

国内に戻ってきた政府や機関の代表は、「国際機関で決まったことですから」「国際的な合意事項なんですよ」「わが国を除くほとんどの国で受け入れられたわけですから」「国際協調ですよ」と国内の反対勢力を説得する。するとどうなるか。細かな部分では反対があったり、修正があったり、相変わらず抵抗があるかもしれないけど、いずれその政策が採用されることはほぼ既定となってしまう。これがポリシー・ロンダリング。

もちろん、政府や機関の代表が公の場でかかわることなんだから、近代国家の掲げる目的から著しく逸脱した犯罪的な政策が合意されるようなことはないだろう。でも、近代国家の掲げるある政策Aと別の政策Bが対立矛盾するような場合、そしてその両者の価値が拮抗するような場合、なんとか政策Aを達成しようと考えるとき、この方法はかなり有効に使える。

われわれのような下々の者にしてみれば、国連とか国際機関とか聞くと「おお、なんだか凄い!」と思い、各国から派遣されてきた頭のよさそうな代表が、私たちの理解を超えたムズカシイ問題についてハゲシク討議し、すごく的確な解決案を出してくれているように思う。で、そのイメージは基本的に正しい。で、こうした人々や機関がすごく重要で立派なことを決めてくれたのだから、われわれはこれに従わなければならない、という雰囲気がある。というか、国際的に決定されてしまったことは、もう大筋では既定であって、あとは細かな調整しかできないように私たちは考えるし、だいたいそういうことになっている。ここが問題。

国際的な合意とか決定とかに私たちはとても弱い。とくに日本人は弱いと思う。日本人は自国政府にとても冷淡だから。たぶん、一般の人の信頼度を日本国政府と国際連合で比較したら、国連の方を信用するっていう人たちのほうが多いんじゃないだろうか。でも、私たちは国際的な決定にかかわる人たちのことをどれだけ知っているだろう? 私たちは国際的な決定の場に派遣される人たちを選んだことがあるだろうか? 私たちは国際的な決定がなされるときに意見表明する機会を与えられただろうか? こんなことを考えると、制度的な仕組みの上では、まだ日本国政府のほうがマシであることがわかってもらえると思う。

私たちが政府の権威をみとめて服従するのは、私たちが政府を間接的に支配しているからだ...というのが近代国家の基本的な理屈。「自分たちの決めたことだから、これに従う」ということ。だから、代表を議会に派遣できない人たちにとっては、政府の権威の正統性はとても疑わしく感じられるはずだ。ところが、私たちが国際的な決定の場に関与する法的制度的な方法がないにもかかわらず、国際的な合意が国内法を拘束しうる状況にある。そして、私たちは、それを正当な意思決定プロセスだと信じている。今回の記事を書くために、憲法・国内法と国際的な取決めの効力の優劣に関する本を読んでみたら、次のようになっていた。

昔々、外交というのは、戦争だの領土だのにかかわる話がほとんどであり、国内政治と国際政治は次元が異なっていた。もちろん、戦争は国民の生命や財産に大きくかかわることだし、割譲される領土に住んでる人たちにとっては、権利状態が大変動する大問題だったけど。昔の考え方では、国際政治は国王(行政権)の専決事項であり、議会(立法権)の支配を受けないものだった。近代的な議会中心の権力分立システムが確立した後も、外交に関しては行政権の管轄事項とされた。国際政治の中で互いに対立している政府が国民を裏切って活動する動機がないし、不本意な結果になったとしてもそれは政府の最善の努力の結果であるという推定が働いて、国民がチェックする必要はないと考えていたのだろう。とはいえ、国際的な合意事項が、国内の国民の自由や財産にかかわる場面も多い。しだいに、条約に対して議会が批准という形で関与する既定をもつ憲法が現れた。さて、行政府が締結した国際的な合意を、立法府が受け入れなかった場合どうなるか。

国際的な合意は行政権の専決事項という伝統に立てば、批准されなかったしても国際的な信義の履行のために有効であるという考え方もあるし、議会制民主主義の原則を徹底すれば、すくなくとも国内の権利関係に影響するような条約については、議会の批准の後に初めて有効になるという考え方もとれる。現代においては、国際政治の舞台に送られる人々がたとえ行政権に属する人々であっても、彼らは、民主的に選挙された議会あるいは議会に基づいた政府によって選抜されている。それゆえ、彼らは、議会が拒絶しない範囲において国際合意を取りまとめるだろうし、成立した国際合意は、議会において尊重され、国内法に反映されるだろう。行政権と立法権の間で相互に尊重しながら、国際合意が国内に効力を及ぼす、という状況になっているのが実態らしい。

このように国際的な舞台には、議会のコントロールが必ずしも効いているわけではないらしい。まあ、議会への私たちのコントロールがちゃんと効いているかどうか、そもそも疑問があったりするわけだけど。そして、多くの国の憲法において、条約そのものが憲法と同程度の最高法規性をもつ、ということになっている。この辺にポリシー・ロンダリングの有用性がでてくる。

議会において政策Aと政策Bが対立している。しかも、それは法律レベルではなく憲法レベルの対立を含んでいるとする。政策Aにも政策Bにも法的・憲法的な根拠がある。これを議会でまともに議論していては、とてもとても時間がかかる。もしかすると、政策Aの実行には憲法の改正まで必要かもしれない。そうするともっともっと時間がかかる。でも、少なくとも政策Aには大義名分があって、議会においてもかなりの賛成派がいる。政府も政策Aを推進したいとなると、いちばん早く合意を形成してしまう方法は、国際的な舞台に議論の場を移してしまい、政策Aを国際合意とすること。しかも、条約にしてしまえば、憲法を越えるか、あるいは並び立つ権威をもつことができる。日本国の場合、憲法改正にはとてもとてもメンドウくさい手続きが必要だが、条約の締結は行政権だけですすめてしまえる。議会で批准されなくても、もう政策Aの方向にしか進めないことになる。あとはじっくりと議会を説得すればいい。

なんかどこかで見たような流れだな、と思う人はたくさんいると思う。古くは日米安全保障条約のとき、最近だと自衛隊の海外派遣なんかのときの決定の進め方を思い出してもらえればいいんじゃないかと思う。でも、そうしたキナくさい部分だけの話じゃない。ネットワークにかかわる問題について考えれば、たとえばこの節の冒頭で触れた通信傍受法。憲法違反なんじゃないか、という疑問が有力に唱えられたけど、「国際的に活動するハッカーやらテロリストやらを取り締まるために必要だ、わが国が傍受捜査できないのでは、国際的な捜査協力に支障をきたす」という議論もあって成立した。

他にもいろいろ例があるけど、またいつかの機会に。

で、国政に意見を反映させることができる人というは、少ない。私たちは提示されたいくつかの意見から選択することができるだけだ。おまけに、政策の選択権の行使であるところの選挙での投票率はどんどこ低下している。だから、国政について私たち個々人の意思が反映されているという認識は、一般的に乏しいだろうと思う。まして、国際的な水準での政治的議論に影響力を行使できる人は、さらに少ない。ごく一部の意識の高い人々を除いて、庶民の日常の生活からすれば、国際舞台で交わされている議論への関心は、とてもとても低いと思うし、知ろうとしても、とてもとてもメンドウくさい。

自分の意思を伝えるとき、すぐ隣にいる人に伝えることすら難しい。この伝えるときの「困難さ」を「コスト」として考えてみる。政治の最小単位は家庭かもしれない。で、家庭内では構成員それぞれの意思が円滑に交換されるはずなんだが、最近はそうでもない。でも、一般的には自分の要求を家族に伝えることはたやすい。町内会くらいになるとどうだろうか。このくらいなら挙手して何か発言した経験がある人もたくさんいるだろう。でも、気恥ずかしいよね。地方自治体議会のレベルになると「選挙」というコストがかかるわけで、通常の庶民にとっては禁止的に高額になる。だから自分の意見を反映してくれる人を、たくさんの有権者が分散的にコストを負担して議会に派遣することになる(タテマエとしては)。で、国内政治、国際政治とコストは増大していく。

ある政策よって影響をうける各人には、理屈の上ではその政策について平等に発言の権利がある。でも実際の発言力は経済力によって大きく左右される。「政策は金で買えるのか」と不快に思う人がいるだろう。けれど、こうした高額なコストがかかる政治機構にも合理性があるかもしれない。全ての要求に政治が応えられるわけではない。だから実行される政策は希少な資源だ。高額なコストを乗り越えて訴えられる要求は、政策の実行という資源をより高く評価していることになるから、より多くの人々の利害にかかわる重要事項であることが期待できる。まあ、この推定には、意見を表明しようとする人々の経済力がそれほど不均衡でないという前提が必要になるんだけど。

実際には経済力は各人でかなりの程度不均衡なわけで、経済力のある人たちの意見ばかりが政治に反映される結果になる。一方、なんとしても意見表明したいんだけど、通常の制度で必要とされるコストを負担できないような人たちがいたとする。で、こうした人たちには、デモとか座り込みとかビラ配りとか議員会館での陳情とかそういう迂回的方法が残されている。言論表現の自由に基づいて、そうしたことをすることが憲法的に保障されている。うまくできてるよね。でも、地方から国会議事堂やら議員会館やらに出かけていって、そうしたことをするにもかなりのコストがかかる。まして、ジュネーブだのニューヨークだのワシントンだのにまで出かけていくのはとてもとても大変。

こうして考えると、国際的な決定の場に影響力を行使できる人たちというのは、正規の方法にしても、迂回的方法にしても、コストが負担できるだけの経済力があるってこと。

ここで、前回書いたように「必須技術のどこまでが知的財産権で保護されて、どの程度強力に保護されて、何年間保護されるのかということは、国際機関に集まる各国代表が枠組みをつくり、それぞれの政府が制度化する。その程度によって、ある知的財産から得られる収益(逆にいえば利用者の負担)は変化する」状況において、国際舞台へ代表を派遣できるほどの経済力のある主体ってどんな人たちだろう、と考えてみよう。国際舞台での決定に影響力を行使できるような団体ってどんな人たちだろう、と考えてみよう。私たちから遠いところでの決定ほど、私たちの手がとどかない。それでいて、その決定の権威は、一国の憲法にも並ぶほどの拘束力をもつ。この仕組みに危うさを感じるのは私の思い過ごしだろうか。

特定の事業者や団体のサイトを狙ったウィルス攻撃やDoS攻撃が最近増えている。コピープロテクション解除技術の開発も、政府のコントロールの下にない暗号技術の開発もアンダーグラウンドで進んでいる。P2P技術等を応用したファイル交換もまだまだ行われている。これらは、それこそ国際的な枠組みでどんどん違法化されている。でも、なかなかなくならない。そうした違法化された行為をしている人たちは、サイバーテロリスト扱いされているけど、彼らにもちょびっとの大義名分がある。また、一方でフリーソフトウェア運動、オープンソース運動、クリエイティヴ・コモンズ運動のような合法的な運動もある。かなりの賛同者を集めて、ある程度の勢力になりつつある。こちらには、明確な大義名分がある。

ここで、前回の「自由・財産(税)・代表」の関係と、今回の「メンドウな事態」とをムリヤリ結び付けてしまおう。なんか落語の三題噺みたいだな。

でも、なんか見えてこない? ネットワークにおいて、為政者とか既得権者たちがなんとか規制下に押し込めようとしている「問題」って、個人の順法意識とか、精神状態とか、その人たちがハッカーだとか、オタクだとか、そういうレベルの問題なんじゃないかもしれない。立派な政治的要求であるにもかかわらず、その要求を代表する回路が与えられていないから、メンドウな事態が生じているんじゃないだろうか。で、そのメンドウな事態をどんどん違法化したところで、メンドウごとがますますメンドウになるだけなんじゃないだろうか。

少し前まで、インディアンすなわちアメリカ原住民の人たちの生存権の要求は、アメリカの法律の前に踏みにじられ、彼らの生きるための闘いは「暴動・反乱」と呼ばれた。大抵の国で、労働者の最低限の生活の要求もまた「犯罪・暴動」扱いされた。デモやストライキに参加したりすると、お巡りさんにボコボコに殴られた。でも、それらの要求は、今では憲法レベルで保障される重要な権利だということなってる。で、これら「暴動」を法で取り締まれば取り締まるほど対立は先鋭化して、ほんとに内乱・革命に至ったりした。マズー(゚д゚)。根本的な解決法は、彼らの政治的要求を合法化し、議会制民主主義の正規の手続きの中に組み込むことだった。だってもともと議会制民主主義っては、暴力的な対立を正々堂々とした舌戦の場に移すことなんだから。

ネットワークの治安とか統治の問題で、いま一番必要なのは、アンダーグラウンドと呼ばれる領域が何を価値として動いているのかを研究し明確化する作業とか、明確化された価値を正当な政治的要求としてまとめるとか、そういうことなのかもしれない。世界的に分散しているだろうそういう人たちが意見表明できる組織とか代表とかを準備すること、国際化してしまっている意思決定プロセスの中に代表を送り込むこと。これらは、悪い人たちの組織や首魁を生み出すってことではなく、むしろ安定した秩序を生み出すための基礎条件。いまネットワークの統治に責任を負う政治家たちは、そうした動きを妨害するよりもむしろ奨励しなければならないだろう。だって、交渉当事者がいてこそ初めて「解決・合意」がありうるわけで。国際NPOとか、そういうものの存在意義ってのもここらへんにあるはず。

この連載「法と慣習」もいまごろその社会的意義がわかった。書くってことは考えるってこと。前回の記事を書き始めたときには、こういうオチになるとは思ってなかった。でさ、読者からの投稿を募集しても、ほとんどネタが集まらないのは、おそらく私がインチキ臭いながらも学者だから「悪いこと」を教えるのは良くないんじゃないか、という遠慮があるのかもしれない。でも、教えて。その「悪いこと」は、ある立場からみたときに「悪い」だけなのかもしれない。「教えて君」が嫌われるのはネットワークの規範だけど、世の中には「分業」という考え方もあるよ。

あと、私に政治的な野心があるんじゃないかと思っている読者がいるかもしれない。無いです。みんなのために、大儀のために働けるというのは特殊な才能で、その才能をもつ人はとても少ない。はっきり言って私にはそういう才能は無い。家族とローンが心配なばかりの小市民なんです。

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告知

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えー、「それ」さんから、お便りいただきました。ありがとうございます。ってか、一通しか来ませんでした。うぇーん(ノД`)。

以前、封建領主の良い比喩を使用してたのに、何でこうなるのか...

現代社会の「税金」と考えるから、変になるんです。ソフトウェアのライセンス料は、実際、年貢であり、小作料であり、人頭税なんです。近代国家や中央集権国家の税制を考えるから「税金」らしく感じないだけで、企業を土地の変わりにライセンスを管理している封建領主と考えれば、ぜんぜん違和感ありません。巻き上げられたお金は、戦争(裁判)や公共事業(バグ修正やセキュリティ対策/新製品開発)に使われる(だろう)から、まさに「税」のようなもの。

はっきりとした断言、力強いです。どうも腰が据わってないですなぁ > 私。なんか公の場に書くとなると、あまりブッちぎった断言がしにくくなったりして。

で、マイクロソフトやその他大手ソフト会社を有力な封建領主として考えれば、ネットワーク内は政治に満ち溢れています。

そうなんですよね。そういう知財戦争とか経済戦争の部分では、政治(戦略)的な駆引きは日常茶飯事ですよね。でも、もっと抽象的で根本的な私たちの自由とか財産とかの部分に関しては、あまり皆さん意識してないようなんで書かせてもらいました。もしかすると、みなさんにはどうでもいい話なのかもしれないけど。

次回のネタは、匿名以外の部分のプライバシーにするか、ポリシー・ロンダリングの事例にするか、ってな感じで考えていますが、いずれにしても大変なんで別ネタになるかもしれません。あと学年末なんで原稿落とすかも... 相変わらず細々とネタ募集してます。 反論でも罵倒でも何でもいいから shirata1992@mercury.ne.jp までよろしく、よろしく(泣)。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 准教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp