De Legibus et consuetudinibus Interreticuli

ラジカルな保守という態度について II

白田 秀彰とロージナ茶会

【法の構造について】

さて、話が法の構造に及んできたので、ここで、法の構造について簡単かつ乱暴に整理してしまいたい。

● 英米法

本論で言及する三つの類型のうち、一番原初的な形態は英米法のもの。いわゆる英米法はイングランド起源なわけだが、その基本的な構造は、古代ローマ世界から見た「北方の蛮族」であるところの諸部族にだいたい共通しているらしい。だから、法構造としては、世界中で普通に見られる仕組じゃないかと思う。

まず、大原則として「世の中ってのはいろいろあるけど、おおよそ上手く行ってる」と考える。大枠として現在の調和状態があり、しかしながらコマゴマとトラブルが起きていると考える。で、その状態が遥か昔から維持されてきたからこそ、今の状態があるわけで、過去に発生した紛争に対する判断は、大筋において調和状態=「法」を発見し適用したものであると考える。そこで、歴史主義・判例主義が出てくる。こうした「昔からそうしてきたから、これからもそうなるのだ」という考え方は、法律に正統性を与える根拠としてもっとも原始的なものであり、伝統説(民族的確信説)とも言われる。こうした法の歴史において、何度も何度も繰り返し使われる考え方は、一般的な法理として整理され、法格言や条文化された法律として単純化されていく。つまりとても帰納的な過程で法が発生してくるわけ。

たいていの民族だと、こうした法の記憶というものは、小共同体で継承されてきた伝承とか、長老の記憶等に依存するわけだが、イングランドでは、その紛争の顛末を比較的こまごまと記録に残すようになった。で、紛争が起きると「お前さんの言い分の根拠はどこにあるんでぃ?!」「ここに書いてある!目ン玉ひん剥いてよく見やがれ!」「てやんでぃ、そんな記録はでっち上げに決まってらぁ!」とケンカする羽目になったので、過去の学説や判例の取り扱いを重視する態度が強くなった。また、どの民族においても正義は神に属する問題とされていて、法の世界は儀式的な「形式」によって権威が発生するというものだったので、手続の厳密性というものがとても重視された。というわけで、手続主義的な面が強くなった。

このようなコモン・ローというものは、曖昧模糊とした民族的確信であるわけで、それがなんだかをキッチリ把握することができるものではない。それは膨大な訴訟記録のなかから浮かび上がってくるようなものなわけ。そうであるから、ある判断が正しいことを客観的に保証するためには、用いられた記録や資料が適切に取り扱われ、正しい手続に従って判断に至ったという部分にしかない。先に指摘したように、アメリカが多民族国家となり多元主義が主流になるにつれて、コモン・ローの部分がなかなか正統性をもち難い状況になってくると、あとは英米法の要素である訴訟記録の「正しい」取り扱いにますます依存しなくては法の正統性を担保できなくなる。

このアメリカ型英米法は、先に述べたように、「何が法の目的か」を問題にしなくても動作するという利点がある。でも、それでも法の権威を支えているのは、コモン・ローや膨大な訴訟記録であり、儀式的な過程だ。すくなくとも訴訟当事者がこれらの部分について権威を認め、服従しなくては、いくら目的を問わない法体系でも機能しなくなる。

● 宗教(を基礎とした)法

「宗教法」というのは、本論での造語だと考えてほしい。なにか良い名前があるといいんだけど。とりあえず宗教の価値観を基礎にした法体系のことを指すとする。この宗教を基礎とした法というものは、これまた世界中で普通にみられる仕組じゃないかと思う。ただし、「宗教を基礎にした」という部分が難しいところで、古今東西の裁判には多かれ少なかれ「神の定める正義」が登場し、儀式的な手続が正統性を担保する重要な要素となっている。たとえば、英米法の裁判において証人は「神」に対して真実を述べることを宣誓する。だから、あらゆる法と裁判は「宗教を基礎にした」といいうる状況がある。ここでいう「宗教」というのは、体系性が強く、体系に示された価値観が一貫している宗教を想定しているものとさせてほしい。通常の場合、一神教はこの条件に該当する。

宗教法においては、法の上位に宗教の教義があり、宗教は世界観を示し、世界の目的を示す。だから法は、その世界観に示された目的を実現するために存在することになる。この場合の宗教は、しっかりとした体系と経典を持っていること、すなわち、その教義に関する神学が成立していることが必要。じゃないとそこから法律を導くことはできない。

宗教法では、まず宗教が理想とする状態が法の目的として設定され、その理想が社会的に共有されている。神学は、その経典を全体として無謬(誤りの無い)なものとして解釈すべく努力し、その説明をする仕事を担当している。法学は、経典の全体としての無謬性に依拠しながら、数学で言うところの「公理」に該当する宗教的価値から、演繹的に「望ましい行為」「あるべき状態」を導き出してくる。これが法律の指導原理となる。そして、法的問題に対する回答に用いられるような概念・命題を、やはり指導原理から演繹的に導き出して準備しておく。とくに一神教では、神の完全性を唯一性と無謬性に依拠するようなところがあるから、神学に対する気合の入り方が断然強くなる。

この体系では、ある事件に関する法的判断の正しさは、宗教の教義の正しさに依存することになる。だから、この体系では、訴訟当事者がその宗教について権威を認め、服従しなくてはならない。そして、大事なポイントなんだけど、宗教の教義にそって導き出された紛争の解決が現実界において受け入れられ実行されることによって、教義それ自体の妥当性が強化されるという関係にあることに気が付く必要がある。

社会が宗教を信じる→教義が社会の目的となる→教義に沿った法体系ができる→教義に沿った紛争解決が行われる→社会が解決の妥当性を承認する→教義が実現されていく→社会が宗教をますます信じるようになる

●大陸法

大陸法の考え方は、宗教法の構造から宗教的要素を抜き取って、理性・合理性で置き換えたものだと言っていいと思う。まず、伝統(この場合は、ローマ法の基本概念)、民主的決定、哲学的思索、既存の法の研究などから、法体系の公理となる法の目的が設定される(自由、平等、権利の実現、公共善など)。その公理から演繹的に概念・命題が導かれる。法学の仕事は、過去の事件の集合を法が対象とする空間として把握して、この空間を論理的に満たしてしまうような諸概念・諸命題を準備し、これを法典の形で整備することになる。英米法が手続の正しさに体系の正しさの根拠を置いたのと対照的に、大陸法では「公理としての基礎概念から、正しい手順で諸概念・諸命題を演繹した以上、その結果としての諸概念・諸命題および全体の体系が正しいものである」という論理・推論に正しさの根拠を置く。

だから、裁判においては、事件を要素に分解して それぞれを条文に適用し、論理的に正しい推論(解釈)をすることで、法的に正しい判決を導く。もし、事件に適用できるような概念や命題が準備されていないときには、法律の専門家が論理的に欠けている部分(欠缺:「けんけつ」と読む)を指摘し、それを立法者が立法によって補うことによって、法体系全体の整合性が維持されるという考え方をとる。だから、大陸法は基本的に静的 static で、全体の整合性に依存して正統性を保つ閉じた体系であることがわかる。

「閉じた体系」というのは批判されるべきところではなく、むしろ当然のことだ。法的紛争になるということは、経済的・社会的手法で問題が解決しなかった場合において、最終判断を訴訟当事者は求めているということ。だから、法的判断が経済学や社会学や歴史学や心理学などの他の要素を含むことは、紛争解決に失敗した基準をまた法的判断において含むことになってしまう。それゆえ、法学が他の要素から超然としていることは、必要なことなわけだ。もちろん現在の大陸法諸国でこんなガチガチの論理学的法律運用をやってる国はないだろうけど、18世紀末から19世紀末に各国で法典が作られていた時代には、こういう風に法律というものをとらえていた。

さて、ここで問題が生じる。人間は、論理回路で構成された機械ではない。不安定で、曖昧で、気分屋で、しばしば規範から逸脱してしまう「生き物」だ。大陸法の法律概念の論理演算の結果がいくら「正しい」ものとはいえ、その結果が生き物である人間に適用されるとき、必ずも納得の得られる結果になっているとは限らない。一般の人が、法律学や法律家に対して持つ「非人間的で冷たい」という印象は、このあたりからきているものだ。では、このような「人間」と法に表現された「合理」のズレはどのように解決されるのか。それは、上記の宗教法において宗教の教義を人々が受け入れるが故に、法の正統性が強化されるという回路と同じ仕組をとる。

社会が合理的・理性的である(少なくともそうした価値観が望ましいという合意をもつ)→合理的・理性的な法の目的が設定される→合理的・理性的な法体系ができる→法律に沿った紛争解決が行われる→社会が解決の妥当性を承認する→理性が実現されていく→社会がますます合理的・理性的になる

人間の不合理さに合わせて法律を運用するのではなく、法律の論理を受け入れられるような合理的な人間を教育等で作り出してしまう。合理的な人間を生み出すために人文・科学の両分野の学問が、最低限必要なものとしての義務教育で与えられる。そして、合理的な人間のあいだで紛争が起きたとき、論理・理性の体系である法律が解決を示すことで、理性の正統性は強化され、また理性が社会的に実現されていくということになっている。この回路の存在は、「なぜ法律を守らなければならないか」という問いの答えも示す。「法律に記述されたように合理的に行動すれば、それは社会において実現されるべきことなのだから、紛争が生じたときに法律にもとづいて権力によって実現してもらえるから」ということになる。

【情報技術の自由さが脅かすもの】

法律が機能するためには、(1) 法律が紛争当事者の双方を包含する程度に空間的広がりを持つこと、(2) 当事者がある解決を一般的(自分たちだけの特殊な解決をしていない)であり、かつ妥当だと認識できること、(3) 当事者は、均質な主体である(法の下の平等)として取り扱われること、が必要だ。

(1) について例をあげる。地域の問題は地域慣習で解決されるかもしれない。しかし、異なる地域間の問題は、地方政府が調整をするだろう。地方政府間の利害が対立するときには、国家が出てくるだろう。国家の利害が対立するときには、国際連合が出てくるだろう。このように、ある主体間の紛争の解決のためには、上位の枠組が存在することが必要で、しかもそれら主体の双方が上位の枠組の権威を承認していなければならない。(2)の一般的だという認識は、主体の双方が同種の事件についての知識を共有していること、すなわち常識の存在が前提になる。(3)について。主体のさまざまな属性(性別、身分、職業など)を法に関係するものだけに捨象し、主体を均質かつ合理的な人間として取り扱うことで、法は衡平かつ一般的に動作することができる。近代が身分制を廃止したのは、中世において社会的身分ごとに細分化されていた法を一元化するための前提条件でもあったわけ。そのために、国家は規律訓練によって人々の認知枠・抽象枠を操作し、画一的な「国民」を作り出そうとした。近代的な法律という統治手段は、その下部構造である共通認識、歴史、文化、常識というものの一元化を必要とする。

中世においては、地理的にも社会的身分的にも、各種の法律が重層的かつ並立的に存在していて、各人はその属性に応じて、また事件の種類に応じて、それぞれの法律に従った。どの種類の法廷に救済を請求するかによって、判決の内容が違ったりしていた。このように法の運用が分裂状態にあるとしても、現実界に個人が存在する限り、その分割不能な肉体としての個人 individual (分割できない) を軸に、各種の法律が相互に無関係な体系に分散していくことを避けられた。近代に至っては、法律の根拠が国家権力に一元化され、かつ法律が個人のもつ権利と義務の体系として構築されたため、個人は、統合的な存在であることが要求された。近代が「生き物」としての人間に与えたもっとも苦しい枷は、もしかすると「自分が唯一の人格として一貫して自分でなければならない」ということなのかもしれない。時として私たちは、自分以外の「何者か」になりたくなる。それが、私たちを電網界での仮面劇へ誘う力のひとつなのかもしれない。

こうした、近代が要求する各種の統合は、次のような回路で生み出されていると考える。まず、(第1層) 私たち人間の生物としての存在ゆえ、現実界の物理・科学法則に従わざる得ない。また、(第2層) 私たち人間の生物としての設計ゆえ、認識(感覚器官が受け取る情報)能力や身体能力には限界がある。さらに、(第3層) 私たちが受け取った情報をどのように知覚するのかという認知能力には枠がある。また、(第4層) 知覚した事柄をどのように抽象化し知識とするのかという抽象能力にも枠がある。ただし、認知能力や抽象能力は後天的なもので、ある文化圏に属する人が違った文化圏の人と同じような認知枠・抽象枠を持っているとは限らない。その具体的な例は言語体系の違いだ。このようにして、(第5層) 個人的な世界像が形成される。こうした個人的な世界像は、現実界においては物理的・地理的に近接した他の個人と相互交流によって相互にすり合わされ、(第6層) 集合的知識へとまとめられる。これが常識と呼ばれるものになる。実は、社会化(教育) 過程において、常識は、共通の認知枠・抽象枠として集団の構成員に設定される。こうすることで、人は集団が指し示すような世界観をもち、価値観が揃うことで集団内部の交流が円滑になるわけだ。常識(第6層)が 認知枠・抽象枠 (第3層・第4層) を制約するような「循環する回路」を、電気工学っぽく帰還回路 feedback circuit と呼ぶことにする。

● ここに解説イラストがあったのですが失われてしまいました。もし、お持ちの方がいらしたら連絡くださいませ● ここに解説イラストがあったのですが失われてしまいました。もし、お持ちの方がいらしたら連絡くださいませ

この図式を、コンピュータ利用者の我々が分かりやすいように喩えれば、第1層、第2層がハードウェアであり、第3層から第6層までがオペレーティング・ソフトウェアということになる。法や法律や規範といったものは、このOS上ではじめて動作するわけ。それは、前に説明した英米法、宗教法、大陸法の構造がいずれも常識を背景に成立していることからわかると思う。

この帰還回路は、現実界では地理的・物理的近接性から自然に発生し、それゆえ、法律は地理的枠組を基礎に成立しえた。法律は必ず、対象となる空間(管轄)をもち、対象となる主体(自然人、法人)をもつわけだけど、それらはいずれも地理的領域を基準として成立している。それが、現実界の基本構造において もっとも合理的な仕組みだったからだ。

【ネットワークと法の前提条件】

ところが、電網界では、現実界の地理的境界が意味をなさない。もっとも明確な境界は、現実界と電網界の境目。そう、私たちがログインするときに、私たちの意識は電網界に入る。でも、電網界の中には国境に該当するような境界がない。あえて言えば、セキュリティシステムによって領域内へのアクセスを制限するとき、制限された領域の内部は、ルールが動作する領域になりうる。たとえば、オンラインゲームの中の世界は、独自のルールが動作しうる基本構造が整えられている。対象となる領域と主体が画定されているからだ。しかもそのゲームを制御している「神=管理者」がいる。

このように、電網界が独自のルールをもつ、たくさんの小共同体から形成されるような状況になったとしても、それぞれのルールの適用を調整する「抵触法」あるいは「法の抵触 conflict of laws」と呼ばれるメタ・ルールを設定することができる、という考え方がある。だから、電網界を通じて作用する法は必要ない、すなわち電網界における価値の選択について考える利益はない、という主張がある。たしかにそうかもしれないけど、メタ・ルールもまた法律であるなら、やっぱりそれら小共同体を横断するような価値の選択の問題が生じてしまう。法律というものが小共同体内のルールを越えて、広域的に小共同体間の紛争解決を行うために存在するのだとすれば、対象となる小共同体を領域内に包含する必要が出てくる。

また仮に、価値の選択をせずに、独立した小共同体間にメタ・ルールを適用するためには、電網界の基本構造のなかに、抵触を解決するシステムを組み込む必要が出てくる。これは法律の話ではなく、第1層すなわちハードウェアあるいはインフラの設計の問題になる。

電網界では、国境を越えてメッセージの交換が迅速にできるわけだから、その領域が広大であったとしても、活発なメッセージ交換の結果として一般的な合意や常識の形成がたやすい、という考え方があった。ところが実際に起きている現象は、そうした世界主義(コスモポリタニズム)的な状況ではなく、嗜好や知識を基礎にして似た人たちが仮想の小共同体を作るというもの。現実界では、第6層が形成されるとき、地理的条件で人々が集まるから、その集団の構成員には多様性があった。その構成員がもつ、それぞれの個人的世界観がすり合わされるなかで、多様性の中に存在する極端な見解が中和された形で常識が形成されていた。ところが電網界では、地理的条件に関係なく、基本的に類似した考え方の人たちで集団が形成される。それゆえ、電網界での集団は、ある特定の考え方に先鋭化しやすい傾向がある。思想や行動の雪崩的な先鋭化(サイバー・カスケード)現象は、こうして生じる。小共同体の内部での構成員間の常識の統一性は堅固であって、ルールを生み出しやすい基本構造にあるということになる。

一方、そうした構成員の類似性や均質性は、容易に異質な構成員の排除に繋がる。現実界では、異質な構成員の排除がさまざまな理由で困難であるので、そうした異質さを受け入れるためにも、多様性を容認する政治的過程や法的ルールの形成が進んできた。たとえば現実界では、禁固刑や死刑や追放といった罰は、とても重大な罰であって めったに発動されない。近代における処罰は、基本的に構成員の社会的復帰、再社会化を目的として進められることになっている。けれども、電網界では、異質な構成員を簡単に排除してしまえる。排除された構成員はまた、容易に自らの嗜好や知識を基礎に小共同体を形成することができる。こうした特性から電網界では、先鋭化した価値観をもつ小共同体が、どんどん細分化して増えていく傾向にあると考える。こうしたとき、それら小共同体を横断的に調整するような上位の権威を、小共同体が承認することはとても難しいだろう。

さらに面倒なことに、電網界では、基本構造自体が人為的に設計され実装されている。このため、基本構造そのものすら小共同体ごとに分離することができてしまう。私たちの慣れ親しんだ世界に反するような基本構造の実装 ── 水が下から上へ流れる設定や、炎が上がると諸物が凍りつく設定すらできる。小共同体がそれぞれに独自の環境を設定したとき、そこから生成されてくる常識が まったく異なってしまうことも十分考えられる。もっと面倒なことに、現実界では、地理的近接性が常識を生み出す帰還回路を構成していたわけだが、電網界では、小共同体内部でその帰還回路が強力に作用するのに対して、小共同体間では帰還回路そのものがなくなってしまい、開放回路になってしまう。帰還回路の重要な要素であった、常識が認知枠や抽象枠に作用して それらを収束させるという機能がなくなって、どんどん拡散してしまう。それぞれの小共同体のもつ認知枠や抽象枠がすり合わされる機会がなくなってしまう。もし、小共同体間を横断して認知枠や抽象枠を設定しようとすると、(a) 誰かが何らかの価値を設定して、それを制度化するか、(b) 誰かが何らかの価値を設定して、それを第1層の構造として実装してしまうか、しかない。

四規制力説では、(b) の手法すなわち 基本構造を操作する方法について、(A) 特殊な能力をもつ人たちの独自の規範 あるいは (B) 市場の利益追求への駆動力によって、その操作が恣意的に進められる危険を指摘する。その上で (a) の手法、すなわち 現在機能している民主主義的な価値選択の過程を通じて作られた法律によって、公開かつ明示的に認知枠や抽象枠を操作することが望ましいとしている。先にも指摘したように、四規制力説は、民主主義的な討議の過程が電網界でも機能するということを前提にしている。この考え方は、電網界がまだ現実界の価値観に依拠しながら機能している初期段階においては、帰還回路を保全し、電網界での価値選択過程を保全することが可能だろう。このように考えるから、四規制力説は、法による他の三要素の制御がうまく機能していない今の段階で、どんどん情報技術が「環境」を変更していくことに警鐘を鳴らしているわけだ。

... 途中ですけど、あまりに長くなったんで、またまた いったん切らせてもらいます。以下次号に続きます。切りかたが唐突でもうしわけないです。

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告知

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ネタはあれども原稿が長すぎてまた次回へ。でも、現在の連載をお終いまで続けさせてくださいね。そうそう。この一連の連載は、私の「立ち位置がよく分からない」という指摘を受けて書いてるわけです。そんなおり面白いサイトを紹介してもらった。 Political Compass http://www.politicalcompass.org/ というところで、質問に答えていくと、政治・経済に関する立ち位置をグラフ上にプロットしてくれるという。

「いったいどういう人間だと診断してくれるのか...スゲエ右に違いネェ!」と楽しみにしてたら、その結果は、

Economic Left/Right: 0.13
Social Libertarian/Authoritarian: -0.15

グラフのゼロポイントに私の立ち位置を示す赤いポイントがプロットされていたので、しばし表示されたグラフを見ながら、「いつになったら診断結果がグラフになるのかな?」と待っていたくらい。どうやら私は極めてニュートラルな人らしい。...とすると私の立ち位置がわかりにくいというのは、そういう理由だったのかも、と思ったりした。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 准教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp