De Legibus et consuetudinibus Interreticuli

法律の重みについて I

白田 秀彰とロージナ茶会

前回、ポリシー・ロンダリングという手法について書いたら、ここのところ低調だった反応がほんのチョビッと活発化したみたい。すこしホッとした。で、一見まともそうな主張なんだけど、「ほんとかな」とちゃんと考えなければいけない事柄についてもう一つ書こうと思う。前回の「告知」でふれた、歴史的背景を踏まえたプライバシーについてとか、サイバー犯罪条約について書くには、時間がありませんでした。書き散らすことはできるんですけど、こういうマジなネタについては、ちゃんと調べ物をしないとマズい。今年(2004)の夏前には公開できるようにしたいです。

今回のテーマは、投稿での提案などから選びました。ポリシー・ロンダリングに関連して、外国の法律を日本に導入するときのことを書こうかと。以下の記述では、「法」と「法律」を意識的に書き分けてます。そのあたりについては、私が昔書いた「法と法則」 を参照してください。

ちゃんと勉強していない私が世界中の「法」の観念について知ってるはずはないし、米・英・独・仏... という西洋法の主要国(だと言ってもいいんだよね)のうち、米・英の様子を文献で読んで理解しているだけで書くのは、マズいことはわかってる。「組織に属して研究させてもらってる人間は、ネットでアレコレ軽々しく語るもんじゃない」「半可通は黙ってなさい」とかいう意見が話題になってるみたい。でも、私が知る限り、一般のネットユーザーの目にふれそうなところで こういうことを書いている人がいない以上、私が人柱になるしかないでしょう。もし、今回の論旨に関連したことをしっかりした先生がちゃんと書いている文献をご存知の方がいらしたら、ぜひぜひ shirata1992@mercury.ne.jp に投稿してください。

さて、日本は西洋法を採用している。西洋法というのは、(1)古代ローマで1000年かけて発達したローマ法と、(2) 中世にヨーロッパを支配したゲルマン系の部族法が (3) キリスト教哲学・道徳のスパイスを振りかけつつ混ざり合ってできあがった法体系を (4) 合理的・理性的に整理した「法」の仲間を指すもの。この出自をみればわかると思うけど、西洋法と江戸時代までの日本の伝統とは、ほとんど関係がないといっていい。

で、この西洋法が(3)の段階に至るとき、(1)が強かったのが「大陸法」と呼ばれる、ヨーロッパの大部分と日本など多くの諸国が採用した法体系。逆に、(2)が強かったのが「英米法」と呼ばれる、かつての大英帝国支配地域とアメリカが採用した法体系。両者は似ているようで基本的発想が違う。今回と次回で、この「大陸法」と「英米法」の考え方のズレをうまく利用する方法について書くことになる。でも大陸法や英米法といっても、それぞれの国では また別々の法文化があるわけで、私の頭の中にあるのは基本的に日本とアメリカであると考えてください。日本でサイバー法とか考えるときに、この二つの国がいちばん影響していると思われるので。

いろんな事情があって、日本は明治時代にドイツから法律を継受した。このころのドイツ法は、法の歴史の中でも、もっとも制定法を重視し、解釈・運用においてガチガチの論理構成がサイコー!とされている時期だった。この立場を法実証主義という。日本は西洋法について右も左もわからない時期に、このドイツ法を受け入れたわけだから、「要するに法律学ってのはこういうものだ」という認識が一般化したのは当然だ。

私は、イギリスやらアメリカやらの法の歴史をやったので、それらの古典的かつ基本的考え方については分からなくもない。でも、ドイツやらフランスやらについては良く分からないので、知り合いにたずねた。本家ドイツでは、戦前のようなガチガチの法実証主義は、戦争中の失敗(ナチ政権の下での法律に法曹界が屈してしまった)の反省のもとに、ずいぶん緩和されているらしい。その知り合いは軽く笑って「もしかすると、日本がいま一番かつてのドイツっぽいかもね」と言ってた。

さて、英米法の特徴は「判例主義」だ。議会が作る法律よりも伝統に根ざした裁判所の判断の方がエラい、という仕組み。ただ、このエラさの意味はイギリスとアメリカでは違ってるけど。違いについては後述。

議会が作る法律のことを act という。議決という意味もあるけど、そのまんま「行動」でもある。なにか問題が起きたときに、どうすべきか議会が行動を起こしたわけ。ちなみに法案の段階では、たんに提案に過ぎないので「書付」bill と呼ばれる。その act が議会を通過して王などの裁可を得ると、「定まったもの」statutum になる。これが法律 statute というもの。でも、議会にしても、王にしても、完全無欠ではない。その法律は一般的には必要で正しいかもしれないけれど、個別具体的な事例にそのまま適用した場合、必ず正しい状態をもたらしてくれるかは保障されない。また、議会がトンデモない法律を通す可能性だってある。

具体的な「正しさ」を司るのが裁判所の仕事。裁判所は、古い歴史のなかから抽出された法 law と人が定めた法律 statute とを調和し、具体的事件に適用し、妥当で適切な状態 justice / right をもたらすことを仕事にしている。「正しさ」は、法を司った先輩たちが選択してきた判断の積み重ね、つまり判例において現れると考える。たぶん、時々の問題に直面している人間の「一時的な」判断をあまり信頼しないで、古くからの積み重ねと時間の洗練を経た「検証済み」の判断に信頼を置いているんだろうと思う。このあたりは、バグの少ないプログラムを書くときの定石にも通じるものがあるんじゃないかな。で、個別具体的な正しい状態の事例 case が積み重なってくると、これが固定化されて法 law となっていく。プログラムの中で同じような作業を繰り返さなければならないときに、その個別の作業を抽象化して、関数あるいはモジュールにするような感じ。

英米法というプログラム系では、かつて動作したモジュールをごちゃ混ぜにして使える。英米法の基本的考え方では、かつて裁判所で判決された事柄は、すべて判断の基礎として用いることができることになってる。で、驚くべきことに13世紀(マグナ・カルタ)まで遡ってもよいということになってるし、もっといえば、あたりまえだと誰もが考える法原則については、「法の記憶の及ぶ以前の古から」なんていう言い方で法として認めてしまったりする。慣習もわりと積極的に法として承認していく。BASICとPascalとCとときどきアセンブラが出てくるプログラムというものを理解するのがいかに大変かは分かるよね。動作しているプログラムなんだけど、なんで動いているのか誰にも分からないという事態さえ生じる(苦笑)。現在では、イギリスもアメリカもずいぶんモジュールを整理したけど、私が研究した時代は、ほんとにゴチャゴチャ状態だった。

こんな風に法が作られていくから、英米法世界での法律家というのは、法律のエキスパートではなく、法のエキスパート、もっと言えば (a)「法の伝統的精髄を身に備えた人間」(b)「健全な常識を備えた人間」であることが期待される。(a)や(b)をリーガル・マインドというわけ。

ちなみに、イギリスでは(a)が、アメリカでは(b)がより重視されていると思われる。というのは、法曹の養成法にそれが現れているから。私が概観した時代の話で、今もそうなってるかについては自信がないんだけど、次のようになる。

イギリスだとギルド的な団体であるインズ・オブ・コート Inns of Court によって全人格的教育が授けられ法曹が養成される。なんだか神秘的です。秘密教団っぽい雰囲気すら漂う。ただ、この養成法だと視野が狭くて古めかしいエリート臭い法律家ができ上がる可能性が高くなる。現在では、近代的な上位組織が養成・資格付与を行う制度に変わっているらしいけど、本質的には変わってないと思う。

一方、アメリカだと基本的に「いいヤツだ」「信頼できるヤツだ」というだけで法律家として最低要件が満たされ、法律家の資格は日本なんかと比較すると簡単に与えられる。ほんものの法律家は、実際の仕事を通じて淘汰の結果おのずと残っていくだろう、という感じ。競争が熾烈だからこそ、法律家として生き残りたい人たちは必死に努力する。ただ、経済的成功のみが淘汰の絶対条件となったりすると、ヘンな状況が発生することになる。

大陸法の特徴は「法律主義」だ。判例やら歴史やらからウヤムヤと紡ぎだされる曖昧な法よりも、そうした法を学者が論理的・理性的に整理した法律案をもとに、議会がバシっと決めてしまい明々白々と紙の上に書いた法律の方がエラい、という仕組み。

なんでそうなったかというと、イギリスとその他の国々の司法機構の独立性の程度とか国民性が影響している。イギリスの司法部は、制度的には王権の下にあったけど、法律家たちがムニャムニャと唱える複雑で難しい法理論に、歴代の王様が従ってしまったという歴史的偶然から、司法部は相当な独立性を持っていた。イギリスでは王権が比較的に弱くて、何度か革命をして王様を取り替えたりした。新しく据えた王様には、「法に従います」「議会に従います」と一筆入れさせて、人民の権利を徐々に強くしていった。そのたびに司法部は「法」を支えにうまく立ち回って正しさを宣する組織としての権威を守った。

ちなみに、革命で王様を処刑したり追い出したりしても、また王様を据えてしまうイギリスは不思議な国だ。おそらく、王権が弱いので、それが存在することの害よりも存在することによる益の方が大きいと考えたんだろうと思う。絶対的に強力だと葬られてしまう。弱いことでかえって生き残れた。司法部にしても似た感じがある。どこかの権力者にベッタリになるとその権力とともに葬られてしまう。何かの理論にガッチリと従うとその理論とともに消えてしまう。なんともつかみ所のない「法」に依拠しながら、その「法」に粛々と従ったがゆえに生き残れた。

一方、他の欧州諸国では、17世紀から18世紀の絶対王政の頃に、司法部は完全に王権の下に組み込まれてしまい、かなり王様の意向に左右されるようになっていた。だから、市民革命が起きて王様が廃止されてしまったとき、司法部も「王やら貴族やらの仲間で胡散臭い」と見られてしまった。法律家の言う「法」の根拠は素人には良くわからなくてアヤしいし、いろんな理屈を認めたら、自分たち(革命に成功した側)の利益をなにやら法で奪い取りかねない、だから、議会が認めた法律に司法部がガッチリ拘束されることを望んだ。これが法律主義の源泉。法律家は、法律を事件に機械的に適用する以上のことをしてはナラン!という状態になった。

ところが実際には、個別具体的な事件ごとにぴったりの法律を準備しておくことなんて不可能なわけで、やっぱり一般的に書かれている法律を、具体的な事件に適用しなければならない。このとき、法律とは別個に存在する伝統やら常識やら慣習やらを持ち込まれると、また法律家がアヤしげな事をはじめるかもしれない。だから、法律以外利用禁止!とした。ただ、法律から論理的に導ける「解釈」ならOKということになった。そこで精緻な論理学であるところの法解釈学が主流になる。裁判も、当事者双方の弁護士がいかにスジの通った法の適用をするのかという勝負になる。このあたりは、汎用的に使えるプログラム言語を設計して、それで具体的なアプリケーションを書くときの感じに近いものがあるんじゃないだろうか。

しっかり設計された言語を使えば、多様なプログラムを書くことができる。ある目的に向けてプログラムを書く場合でも、論理的に綺麗なプログラムと汚いプログラムがありうる。もちろん綺麗なプログラムのほうがエラいということになる。でも、もし言語が準備していない方法でハードウェアへアクセスするような特殊事例に当ると、諦めざるえなくなる。「言語の仕様を改訂してくれ (法律を改正してくれ)」と開発者(立法部=議会)にお願いするほかない。

大陸法世界での法律家というのは、法律のエキスパート。法に関する知識も備えておくべきとされるけど、博覧強記の法律の知識と水も漏らさぬ論理構成がなによりも必要になる。で、もちろん熾烈な試験をクリアした人たちっていうのは、知的水準が高く、健全な常識を備えているんだろう、という期待はできるんだけど、人間の全能力に限界がある中で、知識と論理構成力を極限まで高めないと法律家になれないとすると、熾烈さが激化するある段階で歪みが出るんじゃないかな、という気はする。日本でも、このような懸念から幅広い法学教育を施すとされるロー・スクールが設置されることになったけど、どうなるんだろう。

はあ、疲れた。このへんの話は、法学通論とか西洋法制史とか そういう講義名で大学1年生の時にやる内容なんで、わざわざHotWiredで書きたくなかったけど、意外とこのあたりのことが知られてないみたいなんで書かせてもらいました。ただ、ここでの記述は、それぞれの法系の特徴を強調して書いてあるので、そのへんは割り引いて読んでくださいね。

でも、まだ続きます(泣)。一回で収まらなかったので次回へ。

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告知

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ロージナ茶会のメンバーの間では「どうしてこんなに法に関する関心が低いんだろう」という愚痴が良く出てくる。法についての普通の人の質問とか関心とかいうのは「結局どうすれば法律違反にならないのか」という実利的な部分だけだなぁ、という嘆きも出てくる。まあ、「法」に関心がある我々がヘンな人たちなんでしょう。

でも、山根さんのところでの指摘と、みちむこさんからの、

米国は判例主義の国と言うことはよく言われることですが、日本もそれに近いと言う幻想でもあるんじゃないですかね。だから、まず多少いい加減でも法律的に制限を作ってしまう。しかし、これが米国ほどには「やってみて、司法の判断を待つ」ということが機能していない気がします。裁判自体が少ないこともありますが、「まずやってみよう」という人は、米国に比べて更に少ない気がするのは私だけでしょうか。こうして、息も詰まるような状況になっている気がするのです。

という投稿をうけて、「法と慣習」について考える前の段階からやらないと分かってもらえないんじゃないか、ということに気が付いた。そこで今回は、ほとんど基礎法の講義みたいな内容を書かせてもらうことにした。間違いがあったり、ツマんなかったら遠慮なく罵倒・批判を shirata1992@mercury.ne.jp までよろしく。でもあと一回は書くよ。

どこかのblogで読んだんだけど、「もう啓蒙はダメ」だとのことです。でもさ、それを止めたら、あとはテクノロジーを用いた一種の貴族/奴隷制に進むしかなくなっちゃう。「まともな民主政府というものは、自分で考える国民によってのみ支えられるんだ」 ...とか言っても、( ´_ゝ`)フーン でおしまいなんだろうなぁ。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 准教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp