天に積む宝

*天に積む宝*

白田 秀彰

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著作権法の専門家のはずの白田です。法律について考える人は、ほとんどの場合「権利の最大化」について考えるものでして、おおよそ、その趣旨で発言するのが仕事です。しかし、ここでは、どこかの教会の牧師の説教のような話をさせていただきたいと思います。

「人が生きている」ということは他の人々との間に関わりがあり、他の人に影響を及ぼすことであると考えましょう。私たちの一生は短く儚く、わずか100年も経たないうちに私たちのこの世での「しるし」は消え去ってしまうわけです。しかし、もし私たちの書いたものが私たちの生を越えて残り、それを読んで私たちの「しるし」に心動かされる人がいれば、私たちは永い命を保つことになるのです。それゆえに、作者の死後も読みつがれる作品は偉大なのだと思います。

青空文庫について言えば、すくなくとも読者の一人が、その作者の作品の一字一句を入力し、永遠の命を与えようとするほど作品を愛していることを証明しているわけです。これは、どんなに巨大な墓や石碑よりも永く残る、その作品の作者に対する愛の表現です。それゆえに、青空文庫の活動には、金銭的損得を越えた崇高さが存在するわけです。活動員として積極的に関与する方はもとより、単に青空文庫からファイルをダウンロードして自分のディスクに収め読む利用者の方たちも、作者を賛える記念碑に石を積む人なのです。私は、著作権の保護期間をすぎても青空文庫に収録されない作家たちを本当に可哀相に思います。逆に、青空文庫に収録された作家たちは、なんと幸せなのでしょう。

作品が長い年月を経てなお人々に読みつがれるためには、たくさんの読者から選んで頂かなければなりません。人の嗜好にはいろいろと個性がありますから、作品の命を長らえさせることを考えますと、できるだけ広い人に作品の存在を知ってもらい、そうした人たちに読みやすい状態に作品を置かねばなりません。作者を賛える記念碑に石を積むという目的のためには、著作権法の規定でいけば、氏名表示権と同一性保持権は維持しなければなりません。しかし、排他的独占権すなわち「お金を払わない限り読むことを禁止します」という権利は、いくらかの程度で、読んでくれるはずだった読者を拒絶することになります。

ですから、著作権法による保護期間が満了した作品については、青空文庫への貢献があなたの作品への愛であるなら、氏名表示権と同一性保持権が維持されている限り、どのような利用法であっても、拒絶する理由がないのです。もし、あなたが作品の入力の段階で「お金が欲しいなぁ」と思ったら、当てにならない対価を期待するよりも、堅実にお金になる仕事をした方がよいと思います。その作品が本当に優れたものならば、あなた以外の誰かがその仕事をしてくれるはずだからです。

青空文庫を文化事業として考えると話が違ってきます。主要な日本文学の電子テキストを整備し、青空文庫を永く運営することを目的とするならば、とうぜんあるべき古典的名作を誰かが入力す「べき」ですし、何がしかの対価を徴収して運営体制を整えたほうが、青空文庫という事業体を維持する結果となるでしょう。テキスト入力という「作品への愛」をより効果的に奨励し広めるためには、なんらかの経済的支援があることが望ましいでしょう。もし、誰かが青空文庫の仕事に「ただのり」して商売をするなら、排除するなり、対価を取るなりしなければならないでしょう。

だから、このように整理できます。青空文庫の利用について(A)「完全に自由にすべき」と考える人と(B)「何がしかの対価を取って体制を強化しよう」と考える人の間には、(A)「配布の段階での可能性を最大化しよう」という戦略と(B)「入力の段階での可能性を最大化しよう」という戦略の違いがありますし、(A)「愛と崇高さに対する人間の感情は金銭を越えた力を発揮する」という理想論と(B)「ある程度の規模のアーカイブを構築し維持していくためには資金が必要だ」という現実論が対峙しているわけです。

現実世界に青空文庫が存在するなら(B)の選択が当然選ばれるものと思います。しかし、青空文庫は電脳空間というまったく新しい環境に作られた図書館だと私は考えます。そして(ほんとうに無責任な希望ですが)、(A)の選択、すなわち「愛と崇高さ」に応える無償の行為が、巨大な知識と文化の宝庫を立派に維持できることを証明して欲しいと思うのです。儚く消えていく自分の「存在証明」を、自らの愛した作家の作品の末尾に記すことに「天に積む宝」を見ることができる人が多くいるのだ、ということを証明して欲しいと思うのです。

大学で研究中に戦前のイギリスの本を読む必要があり、かび臭い図書館に潜り込んで探し出しました。厚い革装の表紙を開けるとそこには目元凛々しい学生の写真と名前が記されていました。山本さんという方が大学に寄贈した本のようです。日付を見ると昭和18年でした。私はしばらくその写真を見つめました。そしてどういった経緯で山本さんは、そこここにペンで書き込みのある貴重な洋書を大学に寄贈していったのかを考えました。そのとき、暗い図書館の書庫で、私は私の大先輩からこの本を手渡されたような気分を感じたのです。

私たちは小さな存在で、100年もすれば大抵の人から忘れ去られてしまいます。私たちの衣食を維持するための「地上の宝」は必要です。しかし私たちは衣食を維持する以上の何かを求めて生きているのだと思います。100年後、青空文庫の作品を読み終えた誰かがあなたの名前をみて、あなたの事を考える夢を見てみませんか。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 助教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
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